百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり ★「しのぶ草」なつかしむ昔の栄華とは?★ 百首 一覧
順徳院
(じゅんとくいん)
<1180年~1239年>
第84代天皇。99番・後鳥羽天皇の第3皇子ですが、兄・土御門院(つちみかどいん)の後を受けて14歳で即位しました。承久3年(1221)4月、25歳で4歳の皇子(仲恭(ちゅうきょう)天皇)に譲位して、父の後鳥羽院と倒幕を計ったのが承久の乱です。西軍は敗北し順徳院は佐渡(さど:新潟県の島)へ流されました。21年間島に住み、46歳で死去しています。 出展 『続後撰集』雑下・1205



現代語訳

 宮中の古びた軒端に生えている忍ぶ草を見るにつけても、しのんでもしのびつくせないほど、昔のさかんな御代(みよ)であることよ。
鑑 賞
  永遠に続くと思われた貴族の栄華も今はなく、かつて栄えた内裏の屋根にもノキシノブが伸びるほど荒れ果てた様子です。天皇みずから政務をとった醍醐・村上天皇時代の栄華をしのんでも、しのびきれない思いがするほど、はるか昔の御代(みよ)なのだよ。撰者藤原定家が仕えた後鳥羽院の息子、順徳院が20歳の時に詠んだ歌です。承久の乱に至る5年前、建保4年(1216)のことです。朝廷と鎌倉幕府との対立が深まり、政情にも不穏な空気が感じられた時期です。「しのぶ」は昔を懐かしむ意味の「偲ぶ」と、「しのぶ草」との掛詞です。貴族の没落を帝が深く悲しんでいたことがうかがえます。「いくらしのんでも足りない、懐かしくてたまらない」という下の句には、時代の流れに対するあきらめややるせなさが漂っています。 
止
下の句 上の句
ことば
【百敷(ももしき)や】
 「百敷(ももしき)」は「内裏」や「宮中」の意味で、「や」は詠嘆の間投助詞です。

【古き軒端(のきば)の】

 宮中の古びた建物の軒の端(屋根の端のこと)を意味しています。

【しのぶにも】
 「しのぶ」は「(往時を)偲ぶ=昔の栄華を懐かしく思う」という意味と、軒からぶら下がっている「忍ぶ草=ノキシノブ」の意味を掛けた掛詞です。ノキシノブはシダの一種で、荒れ果てた家などによく見られ、家が荒廃するさまを表すのによく使われます。ここでは、衰えてしまった朝廷の権威の象徴として用いられています。
【なほあまりある】

 「なほ」は「やはり」を意味する副詞。「あまりある」は「(偲んでも)ありあまりほど」、つまり「しのんでもしのびきれない」というような意味です。

【昔なりけり】

 「けり」は気づきの助動詞の終止形です。「昔なのだなあ」という意味ですが、この「昔」は皇室や貴族の栄えていた過去、醍醐天皇や村上天皇の在位していた延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の時代を指すようです。
●「忍ぶ草=ノキシノブ」はシダの一種で、荒れ果てた家などによく見られ、家が荒廃するさまを表すのによく使われます。※ノキシノブ ●父・後鳥羽院が隠岐で亡くなり大原に埋葬されたことを聞いた順徳院は、その悲しみを歌に残しています。「入る月の 朧の清水 いかにして つひに澄むべき 影をとむらん」(父宮は月が入るように、御隠れになったが、朧の清水の大原では、どのように澄む月影―父宮の御霊(みたま)をおとどめしているのだろうか。「続古今集」)
作品トピックス
●百人一首の巻末も親子の天皇が配置されています。後鳥羽院・順徳院は承久の乱に敗れ配流(はいる)となった天皇です。これによって平安時代は終わりを告げ、武士政権が始まります。平安朝の始祖である天智天皇から平安朝の終わりを告げる順徳院に至る百首の中に、平安朝という貴族文化への賛美がこめられているのかもしれません。
●「百敷」は「万葉集」では「大宮」を導く枕詞であり、臣下が旧都をしのんだり、天皇をほめたたえる歌に多く使われました。3番・柿本人麻呂が天智天皇の近江京の荒廃を述懐した歌で「ももしきの 大宮所 見れば悲しも」と最初に用いています。
●大原の三千院の奥、律川に架かる橋を渡ったところに後鳥羽院、順徳院陵があります。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「ももしきや」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。