わが庵は都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり ★宇治山の庵に暮らす心境は?★ 百首 一覧
喜撰法師
(きせんほうし)
<9世紀後半、800年代>
六歌仙の一人。「古今集」仮名序に「宇治山の僧」と伝えられるのみで、経歴は不明です。作品として確かなのはこの一首のみです。850年前後に活躍した歌人かもしれません。 出展 「古今集」雑下・983



現代語訳
私の庵は都の東南にあって、このように心静かに暮らしているというのに、世間の人々は世を憂(う)しと思って住む宇治山だと、言っているようだ。
鑑 賞 
 世間の人々は、都から離れて宇治山にいる私のことを、「あの人は憂し(宇治)、つまり世の中をうとましく思ってひっそり暮らしているのだ」と言う。しかし私自身は、平穏(へいおん)無事に心のどかに暮らしているのだよ。喜撰法師はこのような心持ちを表現したかったようです。急に出家したので、都では「失恋でもして宇治に身を隠したのだろう」とうわさされていました。それを耳にして、仲間にこの歌を送ったそうです。「やれやれ、人のうわさとは」と、苦笑している法師の声が聞こえてくるような明るい歌です。喜撰法師のこだわりのない人柄が伝わってきます。
よ み 止
下の句 上の句
ことば
【わが庵は】
自分の住む庵(いおり)のことです。
【たつみ】
東南の方向。昔は方角や時刻を十二支で表しました。東南は辰(たつ)と巳(み)の方角の中間にあたるのでこう呼ばれます。
【しかぞすむ】
「しか(然)」は、「このように(心静かに)」の意味です。一説には、山奥なので「鹿」にかけたとも言われます。「源氏物語」の歌に、宇治と鹿が一緒に詠まれていたり、平等院鳳凰堂の扉絵(宇治の風景)に鹿が描かれていて、宇治と鹿の結び付きがあったようです。
【世をうぢ山と】
「うぢ」は「宇治」(現在の京都府宇治市)と「憂し」の掛詞となっています。「憂し」は、「つらい」とか「情けない」などの意味です。
【人はいふなり】
「人」は、世間一般の人のこと。上の句の「わが庵は」と下の句の「人は」とを対比的に構成しています。「は」には、自分はそう思ってはいないけど、という意味が込められています。
宇治神社は平等院から見て宇治川の対岸にある神社です。朝霧橋の東詰にある鳥居をくぐり、石段を上がると社殿です。 ●境内には喜撰法師の歌碑があります。本殿には神様の使いとされ、正しい道や良縁へと導いてくれる「みかえり兎(うさぎ)」の像が置かれています。(京都府宇治市)
 作品トピックス
●「古今集」仮名序で35番・紀貫之は「宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし」(ことばがひかえめで、歌の筋道が確かではありません。言ってみれば、秋の月を見ているうちに、夜明け前の雲におおわれてしまったようなものです。)と評しています。
●この歌には掛詞が用いられてています。「宇治」と「憂し」、このようにという意味の「然(しか)」と動物の「鹿」です。ただし宇治と鹿の結つきは「源氏物語」の流行がきっかけで、宇治が「憂き」場所として定着してからです。97番・藤原定家の時代になって、喜撰法師の「しか」が「鹿」の掛詞として認められていったようです。100番・順徳院は喜撰法師の歌を本歌取りして「秋といへば 都のたつみ 鹿ぞ鳴く 名もうぢ山の 夕暮の空」と詠んでいます。
●喜撰法師が住んでいた山は、宇治市の東部にあり、喜撰山または喜撰岳と呼ばれるようになりました。山腹には、喜撰法師の庵とされる小さな洞窟があり、喜撰法師の石像がまつられています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「わが庵は」の歌碑は、亀山公園にあります。(京都市右京区嵯峨亀ノ尾町)