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(きよはらのもとすけ)
<908年~990年> |
30番・壬生忠岑(みぶのただみね)の子どもです。父とともに三十六歌仙の一人で、平安時代に栄華を誇った村上天皇の36番・清原深養父(きよはらのふかやぶ)の孫で、62番・清少納言の父にあたります。平安中期に活躍した「梨壺(なしつぼ)の五人」の一人として有名です。漢学の知識もあり、5人で「万葉集」を現在のような20巻本の形に整えた訓点打ちの作業や、村上天皇の命による「後撰集」の編纂(へんさん)を行っています。三十六歌仙の一人です。 |
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『後拾遺集』恋四・770 |
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あんなに固く誓いましたね。お互いに涙にぬれた袖(そで)をいく度もしぼりながら、あの末の松山を波が越えることはないように、二人の心も決して変わりはしないと。 |
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詞書に「心変はりてはべりける女に、人に代はりて」とあります。永遠の愛を誓ったのに、心変わりをしてしまった女性に送る歌を、人に頼まれて元輔が代作したのです。元輔は専門歌人で、当時偉い方の邸宅に招かれて祝いの歌や屏風歌を詠んだり、代作をしたりしていました。この歌は「古今集」東歌(東国地方の歌謡)に収められている「君をおきて あだし心を 我が持たば 末の松山 波も越えなむ」(もしあなたをさしおいて私が浮気心を持ったなら、あの末の松山を波も越えてしまうだろう)という古歌をふまえています。末の松山は陸奥(みちのく)の有名な歌枕です。波がどれほど荒れようと、松山を波が越すことはないという言い伝えをもとに、心変わりをしないという約束のたとえとして使われます。それなのに、誓いを破り心変わりをしてしまった女性。「あんなに固く約束したよね」と意表をつくストレートな歌い出しが見事です。女性を責めながら、どこか悲しげで「あの誓いを思い出して、もう一度戻ってきてほしい」という切ない心の声が感じられる歌です。この歌は「後拾遺集」恋部4巻の巻頭を飾りました。 |
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【契りきな】
「契り」は4段活用動詞「契る」の連用形で、主に「(恋の)約束をする」という意味。「き」は過去の助動詞「き」の終止形、「な」は感動を表す終助詞で、「約束したものでしたよね」と過去を感動的に回想しています。
【かたみに】 「片身(かたみ)」からくる言葉。副詞で「かわるがわる、お互いに」という意味です。
【袖をしぼりつつ】
「袖をしぼる」というのは「泣き濡れる」という意味で、涙を拭いた袖がしぼらねばならないほどぐっしょり濡れた、という意味合いです。大げさに思えますが、平安時代の歌によく使われる表現です。「つつ」は繰り返しを表す接続詞です。
【末の松山】
現在の宮城県多賀城市周辺です。この地では、松林を「本(もと)の松山」「中(なか)の松山」「末(すえ)の松山」と名づけていました。一種の防波林です。「末の松山」は海岸から見ると、一番奥の松林でどんな大波でも越えることができないので、ありえないことのたとえとして使われるようになりました。
【波越さじとは】
「じ」は打消しの推量・意志を表す助動詞で、「かたみ~とは」までが「契りきな」に続く倒置法になっています。末の松山はどんな大きな波でも越せないことから、永遠を表す表現、「2人の間に心変わりがなく永遠に愛し続ける」ことを表しています。 |
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●「末の松山」は、宮城県多賀城市の末松山宝国寺の正面の本堂の後ろに見える小さな丘で、2本の松が植えられています。昔はそこの近くまで海だったそうですが、869年の貞観地震の時にも、高さ10mの津波が越さなかったと推定されます。 |
●東日本大震災による津波も末の松山を超えることはありませんでした。松の木のそばに「契りきな」の歌碑があります。 |
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●歌枕の「末の松山」は、「枕草子」の「山は」の段にも記されている陸奥(みちのく)の名所です。「古今集」では末の松山を波が越えることはないので、変わらない愛を誓う歌に用いられていましたが、「後撰集」の頃になると、愛の誓いが破られ、相手が心変わりしたことを恨む歌に用いられるようになりました。この「契りきな」の歌も、心変わりした恋多き宮廷女房に対しての恨みまじりの歌です。
●歌枕の流行の中で、「末の松山」のイメージは永遠の愛から愛の裏切りへと変化していったのです。97番・定家は「契りきな」を本歌取りして「思ひいでよ 末の松山 すゑまでも 浪こさじとは 契らざりきや」(「拾遺愚草」)と詠んでいます。 |
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●三重県四日市市の昭和幸福村公園にある歌碑には元輔の姿が描かれています。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「契りきな」の歌碑は、亀山公園にあります。 |
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