逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり ★どの女性に贈った歌?-恋多き中納言の悩み★ 百首 一覧
権中納言敦忠
(ごんちゅうなごんあつただ)
<906年~943年>
左大臣時平(ときひら)の3男、藤原敦忠(ふじわらのあつただ)です。母は17番・在原業平(ありわらのなりひら)の孫、在原棟梁女(むねやなのむすめ)です。三十六歌仙の一人で、琵琶(びわ)の名手でもあったので枇杷(びわ)中納言とも呼ばれました。12歳で昇殿を許され、従三位権中納言となりましたが、父と同じように38歳という若さで亡くなりました。  出展 『拾遺集』恋二・710



現代語訳

 あなたと契りを結んだ後のこのせつなさに比べれば、お逢いする前の悩みなど、何とも思っていないのと同じだったのですね。
鑑 賞
  平安時代には、初めて女性のもとを訪れて思いを遂げた翌朝には、男が邸に帰ってから女性に歌を添えて手紙を贈る決まりごとがありました。「拾遺抄」の詞書には「はじめて女のもとにまかりて、又のあしたにつかはしける」とあるので、この後朝(きぬぎぬ)の歌だといえます。ついに心が通って一夜を共にしてみれば、さらに激しく愛情がつのります。今度はわずかの時間でも離れていることに耐えられなくなるのです。こんな苦しさに比べたら、昔の思いなんて、何も考えていなかったのと同じだというのです。また、「拾遺集」には「題知らず」とあるので、男が逢瀬の後、何かの事情で何日も逢えないつらさを詠んだ歌との見方もできます。どちらにせよ、今すぐ逢いたいというせつない気持ちが伝わってきます。相手の女性は、恋愛関係が知られていた38番・右近ではなく、別の女性だとされています。忠平の娘・藤原貴子という説もあります。「敦忠集」では「御匣殿(貴子)の別当にしのびてかよふに、親ききつけて制すとききて」の詞書をつけた「いかにして かく思ふてふことをだに 人づてならで 君にかたらむ」の歌に続けて載せています。これによれば、ひそかに関係を持った後、親に知られて逢い難くなった状況で詠まれた歌になります。
止
下の句 上の句
ことば
逢ひ見ての】
 「逢ふ」も「見る」も、男女が逢瀬を遂げたり、契りを結ぶ意味で使われる動詞です。

【のちの心】

 逢瀬を遂げた後の気持ちです。今現在の心のことですね。

【くらぶれば】
 
「比べると」の意味で、動詞「くらぶ」の已然形に接続助詞「ば」がついたもの。確定の条件を表します。
【昔】

 
「のち」に対応する言葉で、逢瀬を遂げる前のことを表します。
【ものを思はざりけり】
 
「ものを思ふ」は思いわずらって悩むこと、恋のもの想いをする意味です。「ざり」は打消の助動詞の連用形で、「けり」は詠嘆の助動詞で、逢瀬を遂げる前の恋心なんて軽いものだということに、今はじめて気付いたという感動を表しています。
●「逢ひ見ての」の歌を贈った相手は、26番・藤原忠平の長女・貴子(きし・たかこ)ではないかという説があります。もしそうなら、ひそかに関係を持った後、親に知られて逢い難くなった状況で詠まれた歌になります。法性寺は忠平が営んだ寺です。 ●歌人の俵万智もわたしの好きなこの一首として「恋は成就したときに、本当の苦しみが始まる。そのことを、のたうちまわって言うのではなく、なめらかな調子で歌っているところがまた、この一首の魅力だ。」と語っています。
作品トピックス
●この歌は「後朝(きぬぎぬ)」の歌の代表作だと言われています。男女が一夜を共にした別れの朝を「後朝(きぬぎぬ)」といい、家に戻った男性は和歌を詠んで女性に届けることが決まりでした。それが早いほど「女性を気に入った」と示すことになりました。「後朝」は、2人の衣を重ねて添い寝した男女が、朝になりそれぞれの着物を着て別れるので「衣衣(きぬぎぬ)」であり、その音を「二人で過ごした後の朝」の文字に重ねてできた言葉です。
●「大和物語」には38番・右近、左大臣忠平の姫君・貴子、伊勢の斎宮に選ばれた雅子内親王との恋のエピソードが記されています。   
●人気漫画「ちはやふる」の作者、末次由紀さんが一番好きな歌が敦忠の歌だそうです。「細胞が入れ替わるくらいの瞬間があることを歌った歌だと思っています。そんなふうに読者の皆さんが好きな歌に巡り会うことのできる漫画でもありたいです。」と語っています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「逢ひ見ての」の歌碑は、亀山公園にあります。