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順徳院
(じゅんとくいん。1197年~1242年)
第84代天皇。99番・後鳥羽天皇の第3皇子ですが、兄・土御門院(つちみかどいん)の後を受けて14歳で即位しました。情愛深くおっとした土御門天皇とは対照的に、才気があり、激しい気性の持ち主で活発だったといわれています。父・後鳥羽上皇から大きな期待と愛情が寄せられていました。和漢の学問の才もあり、10歳から97番・定家に歌を学び、定家の息子・為家とも親しく交流しました。かつて醍醐・村上天皇の時代(9世紀末から10世紀中盤)には、貴族は全盛を迎え、「聖代」とまで呼ばれるほどでした。しかし、順徳院の生きた時代は、新興勢力である武士が政治の中心に就き、貴族を追いやって鎌倉幕府を開いた後です。父の後鳥羽院の思いを知り、建保(1212)に入ると、次第に述懐歌や雑歌に、時代を憂う歌が見られるようになります。承久3年(1221)4月、25歳で4歳の皇子(仲恭(ちゅうきょう)天皇)に譲位して、父の後鳥羽院と倒幕を計ったのが承久の乱です。後鳥羽院は全国の武士に倒幕の命を発しましたが、集まったのは1万7千騎(西軍)。対する幕府側(東軍)は19万騎で京に攻め上ります。西軍は敗北し順徳院は佐渡(さど:新潟県の島)へ流されました。帰京を願いながらも21年間島に住み、46歳で死去しています。父の後鳥羽院が隠岐(おき:島根県の島)で亡くなってから3年後のことです。歌の名手で、在位中は歌合を主催していましたが、配流後も歌作に励み、隠岐に流された父とも歌のやり取りをしています。歌学書「八雲御抄(やくもみしょう)」6巻は佐渡に持参し、書き続けられたものです。「続後撰集」以下の勅撰集に159首が入集しています。家集に「順徳院御集」があり、在島中の詠歌として、「順徳院御百首」が残されています。配流後は佐渡院と称されていましたが、1249年順徳院と諡(おくりな)されました。 |
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●「ももしきや 花も昔の 香をとめて ふるき梢(こずえ)に 春風ぞ吹く」(内裏では、花も昔の香りが慕わしい。春風はそれを求めて、桜の古木の梢に吹いているのだ。「新千載集」建保2年、順徳院18歳の作)
●「春よりも 花はいく日かも なきものを しひても惜しめ 鶯の声」(春はまだしも、梅の花の咲いている日は何日もないのだよ。花を惜しみ声高く鳴いてくれ、鶯よ。「新後撰集」)
●「夕立の なごりばかりの 庭たづみ 日頃もきかぬ かはづ鳴くなり」(夕立のなごりをとどめ、庭にできた水たまり、この頃聞くことのなかった蛙がきて鳴いているなあ。「玉葉集」)
●「人ならぬ 石木(いはき)もさらに かなしきは みつの小島の 秋の夕暮」(人ならば「見つ」と語りかけようものを、人ならぬ石や木があるばかりで、さらに悲しみを催させるのは、みつの小島の秋の夕暮だよ。「続古今集」佐渡での百首歌です。)
●「秋風の 枝吹きしをる 木の間より かつがつ見ゆる 山の端の月」(秋風が枝に吹きつけてたわませる、その木のすきまから、かろうじて見える、山の端の月よ。「新後撰集」佐渡での百首歌です。)
●「つま木こる 遠山人は 帰るなり 里までおくれ 秋の三日月」(一日薪(たきぎ)用の小枝を切って集めていた山人は、住み家のある遠くの山里へと帰ってゆくようだ。集落まで送って行ってやれ、秋の三日月よ。「玉葉集」)
●月もなほ見し面影やかはるらむ泣きふるしてし袖の涙に」(月までもが、昔の面影とは変わってしまった。ずっと泣き続けてきた私の袖はもうぼろぼろで、涙に映る月の面影も、以前とはすっかり見違えてしまった。「続千載集」)
●「同じ世の 別れはなほぞ しのばるる 空行く月の よそのかたみに」(隠岐と佐渡と、はるか遠くの国に離れていても同じこの世には生きておりましたのに、父帝とお別れすることとなり、いっそう思慕されてなりません。空をゆく月を形見として眺めるばかりです。「新拾遺集」の詞書に「後鳥羽院かくれさせ給うて、御なげきの比、月を御覧じて」とあり、後鳥羽院が延応元年(1239)、隠岐で亡くなった時の歌です。) |
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●佐渡配流後の貞永元年(1232)には、佐渡で百首歌(「順徳院御百首」)を詠じ、97番・定家と隠岐の99番・後鳥羽院のもとに送って合点(がってん:和歌の評価の際に優れた作品に印をつける)を求めました。嘉禎3年(1237)、定家はこの百首に評語を添えて進上しています。順徳院は歌合で定家に勝ったこともあり、順徳院の歌才を高く評価していましたが、鎌倉幕府への配慮から「新勅撰集」には入れませんでした。また、百人一首のもとになる歌を選んだ時にも、後鳥羽院と順徳院の歌はなく、のちに定家の子孫が入れ換えたのではないかといわれています。
●配流先の佐渡での生活は「増鏡」に「佐渡院、明けくれ御行なひをのみし給ひつつ、なほさりともとおぼさる」とあるように、仏道に励みながらも帰京に望みをかける寂しい日々であったようです。兄の土御門院は1231年に阿波国で亡くなり、子の仲恭(ちゅうきょう)天皇は1234年に病没しました。そして、父の後鳥羽院が1239年2月に隠岐で崩御したことを伝え聞くと、「のぼりにし 春の霞を したふとて 染むる衣の 色もはかなし」(「続古今集」)と嘆きました。帰京の望みを失い、皮膚炎が悪化する中、生きていても仕方がないと数日食を断ち、衰弱した果ての死でした。辞世の歌として「思ひきや 雲の上をば よそに見て 真野の入江に 朽果てんとは」が伝えられています。遺骨は配流当初から従ってきた北面の武士藤左衛門大夫康光(出家して康光法師)によって翌年帰京し、父院の墓所、大原法華堂に納められました。
●兼好法師は「徒然草」で順徳院のことを記しています。庶民の嘆きや国力が弱ることにも気づかず、ぜいたくで派手なことをよしとする人々を批判し、順徳院がその著書「禁秘抄」で「天皇のお召物は、質素なものをよいこととする」と記していることを例に挙げています。 |
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●順徳院上陸の地とされる恋ケ浦に順徳上皇石碑群があります。「いざさらば 磯打つ波にこと問はむ 隠岐のかたには何事かある」と、父帝・後鳥羽上皇を思う和歌を刻んだ「恋ケ浦碑」、地元の人々との交流を伝える「順徳上皇の稗粥物語碑」など、4つの碑が建っています。(佐渡市豊田) |
●順徳院は承久の乱で佐渡配流となり、22年後46歳で亡くなりました。翌日火葬され、その跡に松と桜を植え目印としたのが「順徳天皇御火葬塚」(佐渡市真野)です。 |
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●順徳院の遺骨は分骨されて翌年帰京し、父・後鳥羽院の墓所のかたわら、大原の法華堂(ほっけどう)安置されました。 |
●大阪府にある水無瀬(みなせ)神宮は、後鳥羽・土御門・順徳天皇を祀る神社です。後鳥羽院の水無瀬離宮跡に、院を祀ったことに始まります。 |
●佐渡の伝説によれば、順徳院は水瀬の里をなつかしみ、白菊に似た花を「都忘れの菊」と名づけ、御所に植えて愛したそうです。順徳院の歌「いかにして 契りおきけむ 白菊を 都忘れと 名づくるも憂し」には、菊を愛した父・後鳥羽院をしのぶ思いがあふれています。佐渡の野菊は水無瀬神宮に移植されていました。 |
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