うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを ★初瀬の「山おろし」はどんな風?-報われない恋心をどう詠む★ 百首 一覧
源俊頼朝臣
(みなもとのとしよりあそん)
<1055年~1129年>
71番・大納言経信(つねのぶ)の3男で、85番・俊恵法師の父です。堀河、鳥羽、崇徳天皇に仕え、堀河朝の歌壇の中心人物として活躍しました。48番・源重之がはじめた「百首歌」を発展させて、「堀河百首」を企画・推進します。これによって百首歌の形式が完成しました。「金葉集」の撰者とともに、和歌の批評家として歌論書「俊頼髄脳(としよりずいのう)」を著しました。 出展 『千載集』恋・707



現代語訳

 つれないあの人が、私になびくようにと、初瀬の観音様にお祈りをしたのに。初瀬の山おろしよ、お前のように、ひどくなれとは祈らなかったのに。
鑑 賞
  詞書によると、藤原定家の祖父、藤原俊忠(としただ)の屋敷で、「祈れども逢はざる恋」、つまり「相手の心が冷たくて神仏に祈っても実らなかった恋」という題で詠んだ一首です。恋人になりたいと思っても、相手は冷たい態度で振り向いてくれません。そこで大和国にある初瀬の観音様に祈ったのに、相手はますます冷たくなるばかり。初瀬の山から吹き下ろす激しい北風のように、もっとつれなくなれとは祈らなかったのにと嘆くのが、この歌の内容です。初瀬の山から吹き下ろす風に呼びかける形で、報われない恋心を巧みに表現しています。「山おろしよ」と字余りで詠んできわだたせ、相手のつれなさ、冷たさと重ねています。初瀬はその三方を屏風のように山に囲まれた谷間の集落で、「山おろし(山から吹き下ろす風)」は初瀬の名物でした。一度でも参詣したことがある人なら、都からの遠さや冬の風の寒さが実感できたと思います。
止
下の句 上の句
ことば
【うかりける人を】
 「うかり」は形容詞「憂し」の連用形に過去の助動詞「けり」の連体形がついたもの。「憂し」は「思い通りにならず、つらい」とか「つれない」という意味になります。「つれないあの人を」という意味です。
【初瀬の山おろしよ】
 「初瀬」は現在の奈良県桜井市にあり、平安時代にさかんだった観音信仰で有名な長谷寺があります。「山おろし」は山から吹き下ろしてくる激しい北風です。作者は山おろしを擬人化して呼びかけています。
はげしかれとは】
 「はげしかれ」は形容詞「はげし」の命令形です。「もっと激しくなれ」と呼びかけた言い方です。
【祈らぬものを】
 「ものを」は逆接の接続助詞です。「祈らなかったのに」という意味です。
●「初瀬」は現在の奈良県桜井市にあり、平安時代にさかんだった観音信仰で有名な長谷寺があります。十一面観音像が本尊で多くの参拝者を迎えています。 ●長谷寺は別名「花のみてら」と呼ばれるほど四季折々の花が豊かで、冬の風景もまた魅力的です。恋の成就を願うため、平安時代に「初瀬詣(はつせもうで)」が盛んに行われました。   
作品トピックス
●平安時代には、危機になると救いの手をさしのべてくれるとされる観音様が広く信じられていました。特に、大和国初瀬(現在の奈良県桜井市)の長谷(はせ)寺は、京都の清水寺(きよみずでら)などと並ぶ霊験あらたかな寺として参拝する人が絶えなかったようです。13世紀初めには、人々があまりに多く参拝して、けが人がでるほどだったという記録もあります。「蜻蛉日記」の53番・藤原道綱母や「更級日記」の藤原孝標女も参拝したことを記しているように、女性の篤い信仰を受けていました。
●定家はこの歌を「近代秀歌」の中で「心深く詞心にまかせて、まねぶとも言ひつづけがたく、誠に及ぶまじき姿なり」(余情が深く、その深い余情を巧みに表現していて、他人にはまねの出来ない微妙な言葉の続け方であり、何人も及びがたい詠みぶりである)と高く評価しています。
●「俊頼髄脳」に、「心を先として、珍らしき節を求め、詞をかざりて詠むべきなり」(詠む対象に対する感動が第一であり、それを表現する時には、どこかに新しい趣向をこらし、美しく華やかに表現すべきである)とあるように、俊頼は新鮮で革新的な歌風をめざしていたので、保守的な立場で古風な歌を得意とした75番・藤原基俊とは対立していました。
●多くの歌合で作者・判者を務めました。当時の有名歌人16人による「堀河百首」を企画・推進します。これによって百首歌の形式が完成しました。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「うかりける」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。