久かたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ ★みんなに愛された桜の名歌とは?★ 百首 一覧

(きのとものり)
<845?~905年頃>
宮内権少輔有友(くないごんのしょうありとも)の子で、「土佐日記」の作者である35番・紀貫之(きのつらゆき)のいとこです。三十六歌仙の一人で、当時を代表する歌の名手です。「古今集」の撰者に任命されましたが、その完成を見ずに病気で亡くなりました。 出展 『古今集』春下・84



現代語訳

 日の光がのどかにさしている春の日に、どうして桜の花は落ち着いた心もなく、はらはらと散り急ぐのだろう。
鑑 賞 
 
うららかな春の日差しの中を、桜の花びらが散っていく。こんなにのどかな春の一日なのに、花びらはどうしてあわただしく散っていくのか、という歌です。まず上の句の「久方の光のどけき春の日に」は、「の」音のゆったりとした調べによって、うららかな春の日差しを感じさせます。そして、下の句では、そんなのどかな日に桜があわただしく散っていくことを嘆いています。静と動の対比が印象的です。視覚的で華やかな歌でありながら、散りゆく桜を惜しむ思いを、桜への問いかけとして表現しています。何事も不変ではないという無常の世界を暗示しているようにも思えます。「ひさかたの ひかりのどけき はるのひに」のハ行の響きも効いています。この歌は、発表時はあまり評価されず、鎌倉時代になって97番・藤原定家によって注目を浴びるようになり、「古今集」の中でも名歌とされ、長く人々に好まれてきました。
止
下の句 上の句
ことば
【ひさかたの】
日・天・月・空などにかかる枕詞です。ここでは「(日の)光」にかかっています。
【光のどけき】
「日の光が穏やか」という意味です。「のどけし」には、のんびりとしているな、などというほどの意味もあります。

【静心なく】

「静心(しづごころ)」は「落ち着いた心」という意味です。「落ち着いた心がなく」という意味で、散る桜の花を人間のように見立てる擬人法を使っています。

【花の】
花はもちろん桜のことです。
【散るらむ】
「らむ」は目に見えるところでの推量の助動詞で、「どうして~だろう」という意味です。どうして、心静めずに桜は散っているのだろうか、というような意味になります。
●散る桜は昔も今も人々の心をひきつけます。友則には、桜の花の下で、年をとったことを嘆いて詠んだ歌もあります。
大覚寺の大沢池「菊ヶ島」に菊を詠んだ友則の歌碑があります。「一本(ひともと)と 思ひし菊を 大沢の 池の底にも 誰か植ゑけむ」(菊の花は池のほとりに一株あるだけだと思ったのに、大沢池の底にももう一つあるのは誰が植えたのだろうか。「古今集」)水面に映った菊の花の美しさを、誰が植えたのだろうかと表現しています。
作品トピックス
●「久方の光」「光のどけき」「しづこころなく」という表現は他にほとんど用例がなく、「古今集」以外では評価されていませんでしたが、定家が評価したことによって「古今集」きっての名歌といわれるようになりました。定家は「いかにして しづ心なく 散る花の のどけき春の 色と見ゆらん」(「拾遺愚草」)と本歌取りしています。
●「光のどけき」は陽光ののどかさではなく、風が吹いていない状態を意味するそうです。友則は、風もないのにはらはらと落ちていく桜の花びらに人生の移ろい、無常を見ていたのです。
●嵯峨菊は大沢池「菊ヶ島」に自生していた野菊を育てたもので、毎年11月に嵯峨菊展が開かれています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「久方の」の歌碑は、 亀山公園にあります。