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(こしきぶのないし)
<1000年頃~1025年> |
父は橘道貞(たちばなのみちさだ)、母は56番・和泉式部(「和泉式部日記」で有名)です。母とともに一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕え、小式部と呼ばれました。歌の才能だけでなく、母から美貌も受け継ぎ、恋多き歌人でしたが、決まった人の妻にはならず幸福な結婚生活はなかったようです。左中将・藤原公成(きんなり)の子を生みましたが、お産の直後、25、6歳で病死しました。 |
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『金葉集』雑上・550 |
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大江山を越え、生野を通る丹後への道は遠いので、まだ天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの文(ふみ:手紙)も見ていません。 |
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「金葉集」に長い詞書があります。当時、小式部内侍は年少ながら非常に歌が上手いと評判で、母の56番・和泉式部が代作しているのではないかとうわさがたつほどでした。ある日、歌合の詠者に選ばれますが、その頃、母の和泉式部は再婚して、夫・藤原保昌とともに丹後国に赴いており不在でした。そこで、同じ歌合に招かれていた64番・藤原定頼(さだより:公任の息子)が、「歌は如何せさせ給ふ。丹後へ人は遣しけむや。使、未だまうで来ずや」と尋ねました。つまり「歌会で詠む歌はどうするのですか。お母様のいらっしゃる丹後の国へは使いは出されましたか。まだ、使いは帰って来ないのですか。」と、お母さんに代作してもらえなくて大変ですねとからかったのです。定頼自身も、56番・藤原公任という当代きっての文化人の息子で、彼女と同じように注目される2世歌人という立場だったからかもしれません。それに対して小式部内侍が即興で詠んだのがこの歌です。「生野」と「行く」、「踏みもみず」と「文も見ず」の掛詞を使い、丹後への道筋を示す3つの地名を入れた見事な作でした。丹後へは行ってみたこともないし、母からの手紙も見ていないと定頼をやりこめたのです。定頼はすぐに返歌ができず逃げてしまいます。その場にいた公卿や女官たちも作者の歌才に感嘆しました。小式部の年齢は10代半ばから後半にかけて(12、3歳との説もあります)だと思われます。 |
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【大江(おほえ)山】
丹波国桑田郡(現在の京都府西北部)の山。鬼退治で有名な丹後の大江山とは別。大枝山とも書く。
【いく野の道】
生野は、丹波国天田郡(現在の京都府福知山市字生野)にある地名で、丹後へ行くには生野の里を通りました。この「いく野」には「野を行く」の「行く」を掛けています。
【遠ければ】
遠いので、という意味です。形容詞「遠し」の已然形に、確定の助詞「ば」を付けています。
【まだふみも見ず】
「ふみ」に「踏み」と「文(ふみ)」つまり手紙を掛けた掛詞(かけことば)です。行ったこともないし、母からの手紙もまだ見てはいない、ということを重ねて表しています。さらに、「踏み」は「橋」の縁語です。
【天の橋立】
丹後国与謝郡(現在の京都府宮津市)にある名勝で、当時から知られていました。宮津湾に細長く伸びた半島が、松林と白砂に縁どられていて、宮城県の松島、広島県の宮島とあわせて日本三景といわれています。 |
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●「天橋立」は、日本三景の一つに数えられる景勝地です。京都府宮津市の宮津湾にあり、全長約3.6kmの砂嘴(さし)でできた砂浜で、細長い松林が、湾をふさいで伸びています。その形が、天に架かる橋のように見えることから「天橋立」の名が付きました。平安期からたくさんの文人達が訪れました。 |
●廻旋(かいせん)橋付近の案内板に「大江山」の歌が紹介されています。天橋立を見下ろす傘松公園は、両足を広げて股の間から覗く「股のぞき」の場所として有名です。北近畿丹後鉄道天橋立駅前に「大江山の」の歌碑があります。 |
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●母の代作や指導をきっぱりと否定した「大江山」の歌の詠みぶりについては「俊頼髄脳(としよりずいのう)」「袋草紙」などの歌論書で評価されています。「十訓抄」「古今著聞集」などの説話文学にもくり返し紹介されて広まりました。平安末期以降に流行した和歌説話であったようです。ただし、この話の中の歌合の記録がなく、その歌合で小式部がどんなすばらしい歌を詠んだのかもわかっていません。「和泉式部集」には、都に残していく娘のことを気遣った記事があり、「定頼集」には、そんな和泉式部のためらいを定頼がからかったという記事があります。そのあたりを参考にして作られた説話なのかもしれません。
●大江山(大枝山)は、山賊(さんぞく)が出る場所として、都人に知られていました。小式部が生まれる少し前にも、馬や荷物をうばわれ、けがをした商人の記録が残っています。こわい大江山と景勝地の天橋立、歌の初句と結句に対比されています。 |
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●生野は、福知山市にある地名です。JRバス停生野の里に歌枕の地“生野の里”の案内板と石碑があります。また、国道9号線沿いに小式部内侍の百人一首カルタ型看板があります。 |
●小式部の歌を、京都から丹後への道順にそって、大江山→生野→天の橋立という地名が詠みこまれていると考えると、京都市西京区と亀岡市の境にある大枝山(おおえやま)が有力視されています。 |
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