わたの原 八十島かけて 漕ぎいでぬと  人には告げよ あまのつり舟 ★家族に伝えたい思いとは?―信念の人、参議篁★ 百首 一覧
参議篁
(さんぎ たかむら)
&lt802年~852年>
本名を小野篁(おののたかむら)といい、遣隋使の小野妹子(おののいもこ)の子孫です。武道を好み、漢詩人としても有名で、日本初の勅撰漢詩集「凌雲集(りょううんしゅう)」の撰者の一人です。遣唐船への乗船を拒否し、遣唐使を批判する漢詩を作ったため、隠岐(おき)に流されました。その後、参議にまで出世し、「野宰相(やさいしょう)」とも呼ばれました。身長188cmの大男だったなど、伝説が多く残っています。 出展 「古今集」羈旅・407



現代語訳

 はるかに広がる海原を,いくつもの島々をめざして漕(こ)ぎ出していったよと,都にいる人に伝えておくれ,漁師の釣船よ。
鑑 賞
  詞書に「隠岐(おき)国に流されける時に、舟に乗りて出でたつとて、京なる人のもとに遣(つか)はしける」とあり、流刑地である隠岐国(おきのくに:現在の島根県沖の島)に船出する時に詠まれたものです。送ってきた人に託して家族にことづけた歌でしょう。隠岐に向かうルートは、摂津の難波(なにわ:大阪湾)から瀬戸内海に点在する島々の間を縫うよう進み、日本海に向かいます。季節は冬、目の前にはただ海が広がるばかりです。「遠い都の人々へ伝えてくれよ、漁師の釣船よ」と船に語りかけずにはいられない状況が見えるようです。.流罪は当時もっとも重い刑の一つで、生きて再び都に帰ることはないかもしれないという絶望感はどんなに深いものだったでしょう。波間に浮かぶ小さな舟の描写が、作者の孤独を表しているようです。なお、歌の詠まれた場所については難波とされていましたが、最近は出雲の千酌(ちくみ:島根県松江市美保関町千酌)が有力のようです。
止
下の句 上の句
ことば
【わたの原】
広い大海原、という意味です。
【八十島(やそしま)かけて】

「八十(やそ)」は「たくさん」を意味する言葉で、多くの島です。また「かけ」は動詞「かく」の連用形で「目指して」という意味になります。

【漕(こ)ぎ出でぬと】

「ぬ」は完了の助動詞で「漕ぎ出したよ」という意味になります。

【人には告げよ 海人(あま)の釣り舟】

「人」とは、都にいる人々を指します。「海人(あま)」とは、「漁師」の意味で、「釣り舟」を人間に見立てて呼びかける、擬人法を使っています。
隠岐諸島は現在の島根県の沖、日本海に浮かぶ島です。今は松江市まで車や電車で行き、そこからフェリーに乗ればすぐです。しかし当時は、難波(現在の大阪市)の港から船に乗り、瀬戸内海を進み、本州と九州の境にある関門海峡(かんもんかいきょう)を通って、日本海に出て隠岐まで連れて行かれたそうです。 ●隠岐の中ノ島にある金光寺山(きんこうじさん)の頂上には、かつて六所権現(ろくしょごんげん)がありました。篁はここに100日間こもって、都に戻れるようにと祈願したそうです。「わたの原」の歌の案内板があります。(島根県隠岐郡海士町海士)
 作品トピックス
●「今昔物語」巻24の「小野篁隠岐国に流さるる時和歌を読むこと」には、隠岐配流の時の詠歌2首を中心に構成した話があります。「今は昔、小野篁という人がいた。ある罪により、隠岐国に流された時、船に乗って出発しようとして、京の知人のもとにこう詠んで送った。「わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟 」明石という所に行って、その夜泊まった。時は九月頃のことで、夜明けまで寝つかれず、しみじみと海の上を眺めていたが、沖の船の島隠れに漕ぎ行くのを見て、物悲しく思われて、「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島がくれいく 舟をしぞ思ふ」(ほのぼのと夜の明ける頃、明石の浦は朝霧に包まれているが、小舟が島陰に隠れそうになるのを私はしみじみと眺めている。) と詠んで涙を流した。これは篁が京に帰ってから語ったのを聞いて、こう語り伝えているということだ。」※「ほのぼのと」の歌は「古今集」ではよみ人しらずですが、柿本人麻呂の作という言い伝えもあり、篁の作とするのは「今昔物語」だけです。
●隠岐といえば99番・後鳥羽院が承久の乱(1221)に敗れて流罪になった島でもあります。
●篁が渡航を拒否した遣唐使船は、嵐にあうと沈没の危険が高く、助かっても思わぬ土地に漂着しました。 ●篁は遣隋使の小野妹子の子孫です。9番・小野小町はその子孫とする説もあります。引接寺(いんじょうじ)・千本閻魔堂は篁が創始した寺といわれ、小野篁木像が本堂にあります。
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「わたの原」の歌碑は、亀山公園にあります。
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