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(ごとばいん)
<1180年~1239年> |
第82代天皇。高倉天皇の第四皇子で名前は尊成(たかひら)です。平安時代末期、源平の戦いが続いていた激動の時代に生まれました。平家が西国へ逃れる時、異母兄の4歳の安徳天皇を連れて都落ちしたため、4歳で即位しました。承久3年(1221)、倒幕のため挙兵しましたが北条義時に大敗して出家、隠岐へ流罪となりました。都97番・定家らに「新古今集」の編纂を命じるなど、鎌倉初期の歌壇を支えました。 |
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『続後撰集』雑・1199 |
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人間がいとおしくも、また恨めしくも思われる。つまらない世の中だと思うゆえに、思い悩んでしまう私には。 |
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建暦2年(1212)の歌合「五人百首」の述懐歌で、後鳥羽院が33歳の時に詠んだ歌です。思うようにいかない世の中を嘆き、さまざまな人間関係に苦悩する心情が「あぢきなく」にこめられています。初句・二句の「人」の解釈については二通りあります。一人の人間をいとおしい思えたり、恨めしく思えたりするという二面性を表すという説と、広い世の中には分かり合える人と理解しあえない人がいることを表すという説です。後者をとる研究者が多いようですが、いずれにしても、他人に対する愛憎や不信ゆえに悩む自分の心のさまをじっと見つめて、この世の人間がある時は恨めしく、またある時はいとおしく思えたりするということでしょう。 |
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【人もをし 人も恨(うら)めし】
「をし」は「愛(を)し」と書き、「愛おしい」という意味になります。「恨(うら)めし」は、相手の本心がわからなくて不満であること、また、不満を出せずに執着してしまうという意味です。「も」は並列の助詞で、この2つが対照的に使われています。
【あぢきなく】
形容詞「あぢきなし」の連用形で、「思うようにならずつまらない、面白くなく」という意味になります。
【世を思ふ故(ゆゑ)に】
「世を思ふ」は「世間・天下のことを思いわずらう」という意味です。
【もの思ふ身は】
「もの思ふ」は自分の心に沸き上がるさまざまな思いのことで、「身」は作者自身を指します。上の句に続く倒置法を使っています。 |
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●京都西陣にある五辻殿跡は、数十箇所あった後鳥羽院の御所の一つです。95番・慈円など多くの歌人を集めての歌会が知られています。嘉楽中学校前にあります。 |
●鳥羽は鴨川と桂川の合流点に広がる低湿地帯です。平安末期から鎌倉初期にかけて営まれた鳥羽離宮は、多くの管弦会や歌会、観花会が開かれました。城南宮は後鳥羽院が「流鏑馬(やぶさめ)」の神事を口実にして兵を集め、鎌倉幕府討伐(とうばつ)の兵を挙げたところです。 |
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●憂鬱(ゆううつ)さが漂う歌ですが、それは貴族社会の終わりを見た後鳥羽院の深い実感でしょう。承久の乱の起きる9年前ですが、すでに鎌倉幕府との対立は明らかになり、京都の朝廷の権威もかげりが見え始めていました。後鳥羽院は政治権力を鎌倉幕府や北条氏に奪われた立場にありながら、貴族社会の復権を強く望み、勢いが盛んだった時代を思わせる歌会などの催しを数多く行いました。
●この述懐五首には「人ごころ 恨みわびぬる 袖の上を あはれとや思ふ 山の端の月」や「うき世厭ふ 思ひは年ぞ 積りぬる 富士の煙の 夕暮の空」の作もあり、暗く沈んだ歌が多いです。 |
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●後鳥羽上皇の山田重忠が率いる軍は、鎌倉幕府の北条時房の軍と瀬田の唐橋で戦いましたが敗れました。※現在の瀬田の唐橋 |
●後鳥羽院の離宮跡に建てられた水無瀬神宮の水は、「名水百選」に認定されています。神宮には院の歌を記した絵馬があります。※絵馬とパンフレット |
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