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(ていしんこう)
(880年~949年) |
藤原忠平(ただひら)のことです。関白太政大臣、藤原基経(もとつね)の四男で、兄・時平(長男)死後、氏の長者となって政治の実権を握り、従一位関白太政大臣の座まで出世し、小一条の太政大臣と呼ばれました。藤原氏が栄える基礎を固めました。百人一首の歌人の中で、忠平の子孫は97番・藤原定家を含めて20人弱もいます。貞信公は亡くなってからの諡(おくりな)です。 |
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「拾遺集」雑集 ・ 1128 |
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小倉山の峰の紅葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度天皇がおいでになる(行幸される)まで、散らずに待っていておくれ。 |
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詞書によると、亭子院(時の宇多上皇)が大井川に遊ばれた時、見事な小倉山の紅葉に感動して、「我が子、醍醐(だいご)天皇にもこの紅葉をぜひ見せたいものだ」と言ったのを、お供をしていた若き日の忠平が聞いて、上皇の思いを歌にたくして、醍醐天皇に伝えようと作ったものだ、と書かれています。紅葉の美しさを直接表現するのではなく、紅葉を人になぞらえて、散らずにその美しさを保っていてくれと語りかけることで、鮮やかな彩りの小倉山の景色を想像させます。「紅葉は今が盛りです。美しい今のうちに、行幸されればいかがでしょうか。」と、暗に醍醐天皇に紅葉見物を勧めています。 |
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【小倉山】
京都市の北西にある、右京区嵯峨にある紅葉の美しい名所です。大堰川を挟んで嵐山と向かい合う山で、ふもとに定家の別荘、「小倉山荘」がありました。
【心あらば】
人間の心があるならば、人の情が分かるならば、の意味。紅葉に呼びかけることで、紅葉を人になぞらえる、いわゆる「擬人法」をとっています。
【今ひとたびの】
せめてもう一度だけ。切実な感情が表れた表現です。
【行幸(みゆき)】
天皇が訪れられること。「みゆき」には他に「御幸」の表記もありますが、こちらは上皇、法皇、女院のおでましの意味で、区別しています。
【待たなむ】
「なむ」は願望を表す終助詞で、「待っていてくれないか」の意味です。 |
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●97番・藤原定家の「小倉百人一首」が屏風に書かれていたという「小倉山荘」は、この山の東のふもとにあったとされています。 |
●小倉山は、大堰川(保津川)を挟んで嵐山の北に位置する標高280mの低い山です。この辺りは、平安時代から貴族のレジャーの場所として人気がありました。多くの貴族や歌人が、平安京から千代の古道といれた山越街道、広沢の池を経て嵯峨を訪れていました。 |
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●この「小倉山」の歌は「大和物語」「古今著聞集」などに御幸の話とともに載せられています。「大和物語」99段「峰のもみぢ葉」には、宇多院のおともをした太政大臣(忠平)が、紅葉の美しさに感動して、「醍醐天皇の行幸もありましたら、ほんとうに興の深い所ですよ。必ず天皇に申し上るつもりです。」と申し上げて、即興でこの歌を詠みます。その話を聞いた醍醐天皇は「いと興(きょう)あることなり」(たいそう興の深いことだ)と仰せられて、その時から、大井川への天皇の行幸が毎年執り行われることになったと記されています。
●「古今集」の時代、紅葉の名所といえば奈良の龍田山でした。小倉山の紅葉が有名になったのは、宇多院の大井川御幸の際に、多くの紅葉の歌が詠まれたことがきっかけだったのです。 |
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●常寂光院の境内、仁王門脇にある定家山荘跡石碑に「小倉山」の歌が刻まれています。 |
●小倉山二尊院境内の案内板に「小倉山」の歌が紹介されています。背後の小倉山中腹には時雨亭跡があります。 |
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