山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬと思へば ★冬の山里に暮らす宗于(むねゆき)の思いは?★ 百首 一覧
中納言兼輔
(みなもとのむねゆきあそん)
<9世紀末~939年>
15番・光孝天皇の孫で、是忠(これただ)親王の息子です。天皇の孫でありながら臣籍に下って源姓を賜りました。三十六歌仙の一人で、「古今集」撰者時代の有力歌人です。35番・紀貫之と仲が良かったようで贈答歌が残されています。歌の才能に恵まれ高い評価を得ていましたが、官位があがらないことを嘆く逸話が残されています。 出展 「古今集」冬・315



現代語訳
 山里は、冬になると特に寂しさが身にしみて感じられることだ。人の訪れもなくなり、草木も枯れてしまうと思うと。

鑑 賞
  冬の寒さや心細さがしみじみ感じられる一首です。詞書には「冬の歌とて詠める」とあります。父が出家してから住んでいた四条の北壬生(きたみぶ)の西の南院宮(なんいんのみや)で詠んだと推定されます。訪れてくれる人もいなくなり、草も枯れ果てて木々の枝に雪が積もるような山里の冬。華やかな都会暮らしを送っていた平安の人々にとって、冬の山里の寂しさは身にしみます。しかし、それだけではない自分のわびしい境遇を嘆く気持ちを暗示しているのかもしれません。この歌には本歌があります。「是貞親王歌合」で詠まれた次の2首です。34番・藤原興風の「秋くれば 虫とともにぞ なかれぬる 人も草葉も かれぬと思へば」と、30番・壬生忠岑の「山里は 秋こそことに わびしけれ 鹿の鳴くねに 目をさましつつ」です。「かれぬと思えば」という句に、人のいなくなる「離(か)る」と草木が枯れる「枯る」の意味が掛けられているのが同じです。本歌の方は秋になっていますが、宗于のこの歌は、「枯れる」というイメージが強い冬を選んでいるところに工夫が感じられます。
止
下の句 上の句
ことば
【山里は】
 係助詞「は」は他と区別する意味があります。都ではなく山里は、という意味になります。

【冬ぞ寂しさ まさりける】

 「ぞ」は強意の係助詞で、「季節の中で冬が一番」というような意味になります。他の季節よりずっと、という意味です。「寂しさ」は「孤独だ」とか「寒々として寂しい」という意味になります。また「まさり」は動詞「まさる」の連用形で「増す」「つのる」という意味です。「ける」は詠嘆の助動詞で「ぞ」を受けた係り結びです。

【人目(ひとめ)も草も】

 「人目」は人のことで、人も草もすべての生き物が、という意味になります。

【かれぬと思へば】

 「かれ」は「離れ」と「枯れ」の掛詞で、人が訪問しなくなる意味の「離る」と木が枯れる「枯れ」の二重の意味があります。「思へば」は倒置法で、最初の「山里~」に続きます。
●本歌の一つは、30番・壬生忠岑の「山里は 秋こそことに わびしけれ 鹿の鳴くねに 目をさましつつ」です。 ●山里の秋の鹿の声から、宗于は「枯れる」というイメージの強い冬を選んでいます。
作品トピックス
●「山里」は「古今集」の頃から中国の漢詩の影響を受けて使われるようになりました。平安時代の人々にとっては、ただ寂しい場所ではなく、世を捨てた人が隠れ住む理想の地としてあこがれが高まりました。孤独を味わい、山里に美しさを見出そうという詠みぶりへと変化していきました。
●また、寂しさが増すのは「秋」という捉え方から「冬」へと移した点に宗于の新しさがあります。
●定家の「夢路まで 人めはかれぬ 草の原 おきあかす霜に 結ぼほれつつ」(「拾遺愚草」)は宗于の本歌取りです。
●平安時代の人々にとっては、「山里」はただ寂しい場所ではなく、世を捨てた人が隠れ住む理想の地としてあこがれが高まりました。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「山里は」の歌碑は、亀山公園にあります