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(もとよししんのう)
<890年~943年> |
13番・陽成天皇の第一皇子。父の陽成院が光孝天皇に位をゆずったあとに生まれたので、帝位とは縁がありませんでした。色好みで、美しいとうわさに聞く女性には必ず手紙を贈ることで知られた人でした。多くの恋愛遍歴が伝わることから「源氏物語」の光源氏のモデルの一人ともいわれています。 |
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「後選集」恋 ・ 961 |
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二人のうわさが立ちこれほど思い悩んでいるのですから、今はもう同じことです。難波にある澪漂(みおつくし)ではありませんが、この身を滅ぼしてもあなたに逢いたいと思っています。 |
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この歌は、宇多法皇の最愛の后、京極御息所(きょうごくのみやすどころ:褒子ほうし)との不倫が発覚したときに詠んだ歌です。京極御息所は天下に知られた美女で、志賀寺上人という、生涯女性と付き合わなかった90歳の名僧さえ恋をしてしまったほどの美人です。宇多法皇の息子・醍醐天皇に入内するはずであったところ、その美しさゆえに宇多法皇が自分のものにしてしまったのです。宇多法皇との間に3人の親王まで生まれていました。「後撰集」の詞書(ことばがき)には「事いできて後に、京極御息所につかはしける」と書かれています。宇多法皇の目を避けて密会を重ねていたのに、ついに世間に知られてしまったのです。まさに大スキャンダルです。しかし、元良親王は謹慎(きんしん)中の身でありながら、難波の海に立つ澪標に自分をなぞらえて、たとえこの身がどうなろうとも、あなたに逢いたいと訴えたのです。 |
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【わびぬれば】
「わび」は動詞「わぶ」の連用形で「想いわずらい悩む」という意味です。行き詰まった気持ちを表しています。
【今はた同じ】
「はた」は「また」という意味の副詞で、「今となっては同じことだ」という意味になります。
【難波なる】
「なり」は存在を表す助動詞で、「難波にある」という意味です。「難波」は現在の大阪府。
【みをつくしても】
「澪漂(みおつくし)」と「身を尽くす」の掛詞です。澪漂は航路を示すために立てた標識で、大阪市の市章にもデザインされています。「身を尽くし」は「身を滅ぼす」という意味です。
【逢はむとぞ思ふ】
「む」は意思の助動詞で、「思ふ」は係助詞「ぞ」の係り結びで連体形になります。 |
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●昔は川に沿って水運が発達し、船が行き来していたので、船の航路を示す杭「澪標(みおつくし)」が立てられていました。「澪標」は大阪市の市章に選ばれ、難波橋の石造りの欄干にも彫刻されています。 |
●「わびぬれば」の歌碑は名神高速道路下り線の吹田サービスエリアの中にあります。サービスエリアのオープン記念に建てられたものです。 |
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●「源氏物語」澪標(みをつくし)巻では、住吉大社に参詣した光源氏が明石の君のことを恋しく思って「今はた同じ難波なる」とつぶやく場面があるほど、この歌は平安朝の人々の間でよく知られていました。源氏は「みをつくし 恋ふるしるしに ここまでも めぐり逢ひける えには深しな」(身を尽くして恋慕うあかしとして、ここ、みをつくしのある難波までもやってきてめぐりあったのです。あなたとの前世からの縁が深いのですね。)の歌を明石の君に贈りました。
●また、定家自身も本歌取りして「難波なる 身をつくしての かひもなし 短き葦の 一夜ばかりは」(「拾遺愚草」)と詠んでいます。 |
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●「難波なる」は難波潟(なにわがた)にあるという意味です。、大阪湾の一部で、川が海に流れ込む、芦が生えている湿地帯です。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「わびぬれば」の歌碑は、奥野宮地区の野宮神社のそば、竹林に囲まれたエリアにあります。 |
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