住の江の 岸による波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ ★「夢のかよい路」があれば?-女性の嘆きを詠んだ敏行★ 百首 一覧
藤原敏行朝臣
(ふじわらのとしゆきあそん)
<生年不詳~901年または907年>
清和・陽成・光孝・宇多の4代の天皇に仕え、若くして従四位上、右兵衛督(うひょうえのかみ:朝廷警備の長官)まで昇進しました。妻は17番・在原業平の義理の妹です。三十六歌仙の一人で、高名な書家としても知られています。 出展 「古今集」恋 ・ 559



現代語訳

 住の江の岸に寄る波の「よる」という言葉ではないけれど、夜までも、私の夢へと通う道でさえ、あなたは人目を避けて出てきてくれないのでしょうか。
鑑 賞 
 
あの住の江の岸に寄せる波の「よる」という言葉のように、昼間だけではなく夜までも、ましてや現実ではない夢の中でさえ、あなたは人目を避けてあらわれてくれないのでしょうか。夢という幻想的な素材と、序詞の岸辺に打ち寄せては返す波のイメージによって、ゆらゆらとたよりなげな恋の姿が描かれています。平安時代の貴族たちにとって、夢には特別の意味がありました。自分の見た夢で吉凶を占うことも普通に行われていましたが、何より恋する相手が自分の夢の中にたくさん出てくるほど、相手が自分のことを好きなのだ、と思われていたのです。「夢路」「夢の浮橋」のように、古来より和歌によく詠まれ、恋愛のはかなさを象徴することが多いです。平安時代は、男性が女性の家へ通う通い婚が慣習でした。男性が見限ってしまうと、もう女性の家へはやって来なくなります。当然女性は、いつ自分が捨てられるかもしれないという、不安にさいなまれていたわけです。自分の好きな人が、最近夢に全然現れなくなった。あの人はもう私のことなんて忘れてしまったのではないかしら。忍ぶ恋のつらさが感じられる歌です。作者の藤原敏行は男性ですが、歌合で女性の立場で詠んだ「女歌」です。
止
下の句 上の句
ことば
【住の江の】
「住の江」は、摂津国住吉(せっつのくにすみよし=現在の大阪府大阪市住吉区)の住吉大社付近の海岸のことです。和歌の世界では「恋の忘れ草」が生えている場所として知られています。
【岸による波】
「よる」は「寄せてくる」という意味です。ここまでが「寄る」と同音の「夜」を導きだす序詞になります。
【夜さへや】 「さへ」は、すでにある事実に、さらに他の事実が加わり、「…までも」という意味になります。「や」は疑問の意味を表す係助詞で、全体で「(昼間ならともかく)夜までも…するのか」という意味です。
【夢の通ひ路(ぢ)】
夢の中で恋しい人に逢いに行く道。この表現はこの歌が初出で、敏行の歌には「夢の直路(ただじ)」という表現も見られます。古代の人々は、その人を思っていると、夢の中で恋しい人に逢うことができると信じていました。
【人目(ひとめ)よくらむ】
「人目(ひとめ)」は「他人の見る目」のことです。「よく」は「避ける」という意味の下二段動詞の終止形。「らむ」は原因や理由を推量する助動詞の連体形で、「夜さへや」の係助詞「や」の結びとなります。全体で「他人の目を避けてしまうのだろう」という意味になります。
●「住の江」は、現在の大阪市住吉区の近くの海辺です。現在の住之江区はその隣になります。住吉の海岸は平安時代には松の林が続く砂浜だったようで、住吉大社の近くまで海岸が迫り、白砂青松(はくしゃせいしょう)の美しい景色でしたが、現在では埋め立て地になっています。 ●住吉大社は、平安時代から和歌の神としての信仰されていました。宇多上皇が住吉社に参詣した際に和歌を献じたほか、長元8年(1035年)には藤原頼通邸での歌合に勝った人が住吉大社にお礼参りをして和歌を詠むなど、平安貴族が度々京都から参詣に訪れていました。
作品トピックス
●「夢の通ひ路」という表現は、敏行の歌が初出で、それ以降ほとんど歌に詠みこまれていません。また、敏行は「夢の直路(ただじ)」というよく似た表現で、「恋ひわびて うち寝(ぬ)る中に 行き通ふ 夢の直路は うつつならなむ」(恋悩んでちょっと眠った夢の中にあの人の所に行くことがてきた。真っ直ぐに通じていた道よ、現実であってくれ。「古今集」)とも詠んでいますが、どちらも歌語として流行しなかったようです。
●ところが、定家は「夢の通ひ路」の表現が気に入ったようで「心さへ またよそ人に なりはてば 何か名残の 夢の通ひ路」(「拾遺愚草」)と本歌取りしています。中世になって再評価され流行したようです。
●大阪市住之江区安立にある阿弥陀寺(あみだじ)境内には「住の江の」の歌碑があります。
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「住の江の」の歌碑は、亀山公園にあります。