見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず ★つらい恋に流す涙は何色?-中国の故事を歌に活かして★ 百首 一覧
殷富門院大輔
(いんぷもんいんのたいふ)
<1131年頃~1200年頃>
従五位下・藤原信成(のぶなり)の娘で、後白河天皇の第一皇女、亮子(りょうし)内親王(=89番・式子内親王の姉、後の殷富門院)に姉とともに仕えました。多くの歌合に参加し、当時は、小侍従(こじじゅう)や92番・二条院讃岐と並ぶ女流歌人として有名でした。殷富門院に従って出家して、晩年は、歌道と仏道に励みました。 出展 『千載集』恋・884



現代語訳

 (恋の血涙で色が変わってしまった私の袖を)あなたに見せたいものです。松島にある雄島の漁師の袖でさえ、波をかぶってひどくぬれても色は変わらないというのに。
鑑 賞
  歌合の時、恋の歌として陸前の歌枕である雄島を題材として詠んだ歌です。この歌は「後拾遺集」にある48番・源重之(みなもとのしげゆき)が作った「松島や 雄島の磯にあさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか」(あなたを思って泣いています。松島の雄島の漁師の袖が海水にひどくぬれるのと同じように、私の袖は恋の涙にぬれてどうにもなりません。)という歌を本歌(ほんか)にして、それに返歌をする形で詠んでいます。重之の歌に対して、大輔は、「私の袖こそ見せたいものです。涙も枯れて血の涙が流れ、色が変わってしまったのですから。松島の雄島の漁師の袖でもこうはならないでしょう。」と詠ったのです。「袖の色が変わる」というのは、涙が枯れて血の涙が出るほど激しく泣いたことを暗示しています。ちなみに「血涙・紅涙」というのは、中国の漢詩からきた言葉です。ひどく悲しいときに流す涙のことで、恋のつらさを表現すのによく用いられました。大輔はそれをふまえているのです。  
止
下の句 上の句
ことば
【見せばやな】
 「ばや」は願望の終助詞で、「な」は詠嘆の終助詞です。「見せたいものだ」という意味になります。
【雄島(をじま)の蜑(あま)の】

 「雄島(をじま)」は、歌枕としても有名な陸奥国(現在の宮城県)の松島湾にある島のひとつです。「蜑(あま)」は漁師のことで、海女と違い男女どちらでもこう言います。

【袖だにも】

 「だに」は「~でさえ」という意味の副助詞です。「袖でさえ」という意味になります。

【濡れにぞ濡れし】

 格助詞「に」は同じ動詞を繰り返して、意味を強める時に使われます。「ぞ」は係結びになる係助詞で、過去の助動詞「き」の連体形「し」が結びになります。

【色は変はらず】

 袖の色が変わるのは、泣きすぎて涙が枯れ、ついには血の涙が流れるためです。中国の故事、「韓非子」によると「ある農夫が畑で玉(ぎょく=宝石の一種)の巨大な原石を見つけた。王に2度献上したが磨いても石のままだったので、両足を切られてしまった。そこで農夫は激しく泣いて血の涙を流した。結局3度目に玉が磨き出され、農夫はやっと称えられた」という話がもとになっています。
●「雄島(をじま)」は、歌枕としても有名な陸奥国(現在の宮城県)の松島湾にある島のひとつです。東北地方の歌枕は、平安貴族にとっては行く機会のない場所でしたが、見知らぬ美しい景色へのあこがれは強く、歌の題材にされました。 ●湾に約260もの島が浮かび、海水によって奇妙な形に削られた島々とそこに生える松の風景が絶妙です。雄島に架かる朱塗りの渡月橋は東日本大震災のために流出ましたが、2013年7月、新しい橋が架けられました。
作品トピックス
●「見せばやな」の歌は、評判が高かったようで「殷富門院大輔集」の源頼政との贈答歌には、大輔の歌を意識した返歌が残されています。頼政が近くに来ていることを耳にした大輔が旅愁を慰める歌を届けると、次のような歌が頼政から返ってきました。「我はただ をじまのあまぞ 忘られぬ つりする舟を 見るにつけても」(難波の釣舟を見ていても、私は「松島の雄島のあま」が忘れられません。あなたの名歌「見せばやな」が頭から離れないのです。)
●また、「続千載集」の正三位知家の「松島や 雄島のあまに 尋ねみん ぬれてはそでの 色や変ると」の歌は、大輔の歌を本歌としています。
京都白川の85番・俊恵法師の別邸で開かれた「歌林苑(かりんえん)」の歌会の有力なメンバーでした。「歌林苑(かりんえん)」は、当初、南区久世殿城町の福田寺(ふくでんじ)で開かれ、後に京都白川の僧坊へ移され20年ほど開かれたともいわれています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「見せばやな」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。