田子の浦に うちいでて見れば 白妙の  富士の高嶺に 雪は降りつつ ★神の山「白富士」をたたえた赤人、新古今風に改作すれば?★ 百首 一覧
天智天皇
(やまべのあかひと)
<生没年未詳、7~8世紀頃 701年頃~天平勝宝年間頃>
奈良時代初期の宮廷歌人で、「万葉集」第3期の代表的歌人です。天皇の行幸などに同行して歌を捧げたり、皇室で不幸があれば挽歌(ばんか:人の死を悲しみ嘆く歌)を詠むなどの仕事が多かったようです。特に聖武天皇期に活躍し、各地への行幸にお供した時の歌が残っています。三十六歌仙の一人です。「万葉集」では「山部」ですが、「百人一首」では「山辺」の表記が一般的です。 出展 「新古今集」冬・675



現代語訳

 田子の浦に出て遠く見渡せば,真っ白な富士の高い嶺(みね)に,今も雪が降り続けていることだ。
鑑 賞
 
冬のある日、田子の浦へ出てみた。するとはるかに望む富士の峰が、真っ白な雪をかぶった姿でそびえている。その頂上には今も雪が降り続いている。冬の富士は「白富士」と呼ばれ、そこにしんしんと雪が降っているのです。青い海辺と真っ白な峰と、音もなく降り積もる雪。広大で、幻想的な情景です。この歌は、「新古今集」の中から取られた一首です。最初に収録された「万葉集」では「不尽(ふじ)の山を望む」という詞書の長歌に対する反歌として「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」となっています。「真白にそ」という直接的な言い方で、最後の「ける」も「降っているなあ」というように、目の前に広がる富士山への感動がストレートに詠まれています。ところが、「新古今集」では「白妙の」とやわらかい調べになり、「降りつつ」と改作したことによって、時間の流れが消えたような余情が感じられます。素朴・力強い「万葉集」と、繊細・幻想的な「新古今集」との違いがわかる一首です。
  止
下の句 上の句
ことば
【田子(たご)の浦に】
「に」は作者の立っている場所を示す格助詞です。田子の浦は静岡県富士市付近の海岸です。赤人によって詠われた田子の浦は、駿河湾(するがわん)の西の方にある由比(ゆい)、蒲原(かんばら)のあたりまでの広い範囲を指していました。そのあたりは裾(すそ)を長く引く富士山の最も美しい全容をながめることができる所として知られています。
【うち出(い)でてみれば】
「うち」は動詞の前につく接頭語で、言葉の調子を整えるために付けます。「みれ」は動詞「見る」の已然形で、接続助詞「ば」は已然形から続くと確定条件を表します。「出でてみる」は「出る+見る」という2つの動作を表したもので「浦に出て眺めてみると」という意味になります。
【白妙(しろたへ)の】
「白妙」はコウゾ類の木の皮の繊維で織った純白の布のことです。富士にかかる枕詞になっています。
【富士の高嶺に】
「富士山の高い嶺(みね)」のことです。
【雪は降りつつ】
「つつ」は反復・継続の接続助詞で、時間の継続の意味がこめられており、雪がとだえず降り続いていることを表します。
●田子の浦は、駿河国(現在の静岡県)の海岸で、庵原(いはら)郡由比(ゆい)町から西南の海岸がそれで、倉沢や由比、蒲原のあたりがかつての田子の浦です。現在の田子の浦は駿河湾臨海工業地帯の拠点となる工業港です。 ●田子の浦港をはさんで向かい側にある「ふじのくに田子の浦みなと公園」内には赤人の「富士山を望む歌」の長歌と短歌を石柱8本に刻み、富士山型に配したものがあります。
 作品トピックス
●由比(ゆい)、蒲原(かんばら)の西には、東の箱根峠越え、西の鈴鹿峠越えと並ぶ道中の難所「薩埵峠(さったとうげ)」があります。山が海へと突き出す地形となっている所で、古くは海岸線を波にさらわれぬよう走りぬける必要があったそうです。このため山側に遠回りするように造られたのが薩埵峠です。峠を越えてきた都からの旅人は、突然、目の前に姿を現す富士山に強い感動を覚えたことでしょう。
●「田子の浦に」の歌が赤人作として有名になったのは「新古今集」に選ばれて以後のことで、定家がこの歌を評価したのも晩年のことだろうと言われています。また、朝日新聞Webサイトのアンケート(2014年11月)によると、「百人一首で好きな歌ランキング」の第1位に選ばれたのがこの「田子の浦に」の歌でした。
●JR吉原駅から徒歩10分にある「富士と港の見える公園」からは富士山と田子の浦港が一望できる展望台があり,近くに山部赤人歌碑があります。 ●「万葉集」には富士山の気高さを詠んだ長歌の後に、反歌「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」が添えられています。