心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな ★月を眺めて思ったことは?-心労多き三条院の生涯★ 百首 一覧
三条院
(さんじょういん)
<976年~1017年>
第67代天皇、三条天皇。冷泉(れいぜい)天皇の第2皇子・居貞(いやさだ)親王のこと。母は関白藤原兼家の娘超子(ちょうし)。1011年に36歳で即位しました。しかし、病弱で、失明に至る眼病のため、藤原道長に退位を迫られ、在位5年で敦成(あつひら)親王(後一条天皇)に位を譲りました。娘の当子内親王と63番・藤原道雅との密通事件などもあり、失意のうちに死去しました。 出展 『後拾遺集』雑1・860



現代語訳

 これから先、心ならずも、このはかない現世に生きながらえていたなら、きっと恋しく思い出されるに違いない、この夜更けの月であることよ。
鑑 賞
  この歌には複雑な背景があります。「後拾遺集」の詞書に、「例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしける頃、月の明かりけるを御覧じて」とあります。「例ならず」は病気で、という意味ですので「病気で退位を決意された時、明るく輝く月を見て」ということになります。長和4年(1015年)12月10日過ぎのこと、三条天皇は、中宮妍子(けんし:道長の2女)と宮中で冬の冴えわたる月を眺め、その時の心境を詠みました。「本当は死んでしまいたいくらいだけど、心ならずも生きながらえてしまったなら、今夜宮中から眺めているこの夜ふけの月が、きっとさぞかし懐かしく思い出されてくることだろうなあ。」と。全盛期であった藤原道長から眼病を理由に退位を迫られ、権力闘争に疲れ果てていました。失明におびえる三条院の目に、月明かりはより美しく映ったことでしょう。翌長和5年正月、三条院は敦成親王に皇位を譲ったのでした。
止
下の句 上の句
ことば
【心にもあらで】
 「心ならずも」とか「自分の本意ではなく」などという意味です。「に」は断定の助動詞「なり」の連体形、「で」は打消の接続助詞です。「心にも あらでうき世に ながらへば」とあるので、本心では早くこの世を去りたいと思っていることを表しています。
【うき世】
 「浮世」、「現世」のことで、「つらいこの世の中で」というような意味になっています。
【ながらへば】
 「生き長らえているならば」という仮定の意味を表しています。下二段動詞「ながらふ」の未然形に接続助詞「ば」が付き、「これから長く生きているとすれば」という未来のことを想像する内容になっています。
【恋しかるべき】
 「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形で、「夜半の月」にかかります。
【夜半(よは)の月かな】
 「夜半(よは)」は夜中や夜更けのことで、「かな」は詠嘆の終助詞です。全体では「この夜更けの月のことがなあ」という意味になります。
●枇杷殿は三条天皇の中宮となった道長の次女妍子(けんし)の里内裏となった所です。道長より譲位を強要され、後一条天皇に皇位を譲った所でもあります。京都御苑内に枇杷殿跡が残されています。 ●病気で退位を決意された時、満月に近い冬の月を見て詠んだ歌です。長和4年(1015年)12月10日過ぎのことでした。
作品トピックス
●「栄花物語」にも「心にも」の歌は記されています。退位の1か月前にあたる長和4年12月10余日、満月に近い冬の月を見て、中宮妍子(けんし:道長の2女)の前で詠んだとあります。余りにも寂しい歌なので、近世になるまでこの歌が引用されることはありませんでした。
●道長は娘3人を歴代天皇の中宮(一条帝中宮彰子・三条帝中宮妍子・後一条帝中宮威子)にし、絶大な権力を誇りました。しばしば道長と対立した三条院は、道長の圧力に一人耐え、絶望感を抱いた宮中生活であったことでしょう。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世は、私の世だと思うよ。今宵の満月のように、欠けるところなく満ち足りていると思えば。)藤原実資の日記「小右記」によると、道長の娘・威子が後一条天皇の皇后に立った日に詠んだ道長の歌です。同じように月を詠った歌ですが、三条院はこの歌を知らずに亡くなっています。
●三条院は眼病のため次第に視力を失っていきました。中宮妍子(けんし)が生んだ幼い姫宮の髪を手さぐりされて「こんなにも美しくいらっしゃるお髪を見ることができないのが、いかにも情けない、残念だ」とぽろぽろ涙を流されたそうです。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「心にも」の歌碑は、亀山公園にあります。