由良の門を わたる舟人 かぢをたえ 行く方も知らぬ 恋の道かな ★新しい歌の形を求めて-好忠の技巧がさえる恋歌★ 百首 一覧
曽禰好忠
(そねのよしただ)
<930年~1000年頃>
花山天皇時代の歌人で、六位丹後掾(たんごのじょう)という地方官吏だったので身分の低さから軽く扱われ「曽丹(そたん)」とか「曽丹後(そたんご)」とあだ名で呼ばれました。寛和年間(985年~987年)を中心に、「古今風」にとらわれず、歌壇に新風を吹きこんだ異色の歌人です。歌壇では孤立した存在でしたが、死後に見直され、平安後期の歌人から高く評価されました。  出展 『新古今集』恋・1071



現代語訳

 波の荒い由良(ゆら)の海峡(かいきょう)を渡る船乗りが、櫂(かい)をなくして行く先も分からずに漂うように、先が分からない私の恋であることよ。
鑑 賞
  ため息をついている作者の姿が見えるようです。由良川は京都府の北部、宮津市を通って若狭湾(わかさわん)に流れ込む川です。好忠は地方官として丹後に赴任していたことがあるので、そこで実際に見た光景かもしれません。河口部分はちょうど川の水と海の水が混じって流れが速い上、波が乱れて渦などもできています。熟練した船乗りでさえ櫂(かい)を流されてしまい、途方にくれたりもするようです。この歌は、その情景を「序詞」として語り、私の恋も、頼りなく漂う船頭と同じで、これからどうなるか分からないと、先の見えない不安や危うさを歌っています。縁語を多用したり序詞を使ったりと、技巧をこらた作風は、「新古今集」の特徴です。素朴な歌いぶりではありませんが、知的な点が定家の好むところだったのでしょう。家集「曽禰好忠集」恋の十首の巻頭にもみえる一首です。
止
下の句 上の句
ことば
【由良の門(と)】
 由良は丹後国(現在の京都府宮津市)を流れる由良川の河口です。「門(と)」は、海峡や瀬戸、水流の寄せ引く口の意味で、河口で川と海が出会う潮目で、潮の流れが激しい場所です。名所歌枕一覧に「丹後京都府宮津市栗田湾に面する由良川の河口付近の海」と記載されています。

【舟人】
 船頭さんのことです。
【かぢをたえ】
 「かぢ」は、櫓(ろ)や櫂(かい)のように舟を操る道具のことで、船の方向を変える現在の「舵(かじ)」とは異なります。「たえ」は下二段活用動詞「絶ゆ」の連用形で、「なくなる」という意味です。また、名詞の梶緒(櫓をつなぐ綱)として、梶緒が切れての意味と解釈することもできます。ここまでが序詞になります。
【行くへも知らぬ】

 上の句の流される舟の情景と、下の恋の道に迷う部分との両方に意味がまたがる言葉です。「行く末が分からない」という意味になります。

【恋の道かな】

 「道」は、これからの恋のなりゆきを意味します。「門(と)」や「渡る」「舟人」「かぢ」「行くへ」「道」はすべて縁語です。
●この歌の舞台の「由良の門」の場所には、2つの説があります。丹後国・宮津市の由良川で、若狭湾に注ぐ河口のあたりです。こちらが現在ではほぼ定説化しています。もう一つの説は紀伊国(現在の和歌山県日高郡由良町)にある由良の御崎(みさき)で、新古今集の時代には有名な歌枕でした。 ●宮津市に丹後由良海水浴場があり、国道178号線ぞいの由良磯山の脇公園内に歌碑があります。
作品トピックス
●この「由良の門を」の歌は平安後期までほとんど評価されませんでしたが、「新古今集」に至って再評価されました。好忠は、時代の流れの中でその評価が一番変動した歌人だといえます。「金葉集」ではまったく無視されますが、次の「詞花集」では、夏・秋の巻頭を飾ります。ところが、その次の「千載集」ではまた評価を落とし、「新古今集」で復活するという具合でした。
●91番・藤原良経が「由良の門を」を本歌取りしています。「梶(かぢ)を絶え 由良の湊(みなと)による舟の たよりも知らぬ 沖つ潮風」(梶の綱が切れ由良の港に寄ろうとしている舟が、手がかりもわからないで漂っている、沖の潮の潮風よ。「新古今集」恋。由良の港は女性を、舟は男性を暗示しています。女性に逢う手がかりを失った男性の心情を象徴しています。)
●三重県四日市市の昭和幸福村公園にある歌碑には、好忠の姿が描かれています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「由良の門を」の歌碑は、常寂光寺と二尊院の間の長神の杜公園にあります。