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(さきょうのだいふみちまさ)
<992年~1054年> |
藤原道雅(ふじわらのみちまさ)。関白藤原道隆(みちたか)の孫で内大臣・藤原伊周(これちか)の息子です。中関白家の没落により、荒れた生活を送り、人々からは「荒三位(こうざんみ、あらさんみ)」「悪三位」と呼ばれて、恐れられました。当子(とうし)内親王との禁じられた恋によって生涯ほとんど官位の昇進もなく不遇のまま過ごしました。 |
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『後拾遺集』恋・750 |
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今となってはただ、「あなたへの思いをあきらめます」という一言だけでも、人づてにではなく、あなたに直接あって言う方法があればなあと思います。 |
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詞書には藤原道雅と三条院の皇女・当子(とうし)内親王との秘密の恋のエピソードが残されています。「伊勢の斎宮(さいぐう/いつきのみや)わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、おほやけも聞こしめして、守り女(め)など付けさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、詠み侍りける」とあります。時の権力者藤原の道長の圧力で三条天皇が退位され、皇女・当子(とうし)は伊勢の斎宮の任を解かれて、都に戻りました。斎宮は神に仕える巫女ですので、恋愛はかたく禁じられていましたが、当子はすでに自由の身、道雅がひそかに通うようになります。当子は17歳ほど、道雅は24歳くらいでした。長和5年(1016年)、そのうわさは父・三条院の耳に届きます。家の没落で荒れた生活を送っている男との恋に院は激怒します。2人の間を取り次いだ乳母・中将内侍は追放、当子は母・娍子のもとで厳しい見張りを付けられ、道雅と逢わせないようにしました。悲痛な心情がそのまま素直に表現された歌です。「あきらめるにせよ、せめて会って私の口から別れを伝えたい」という切実な思いが伝わり、当子への未練がにじんでいます。
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【今はただ】
「今となってはもう」という意味です。
【思ひ絶えなむ】
「思ひ絶え」は動詞「思ひ絶ゆ」の連用形で、「想いをあきらめてしまおう」という意味です。「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形で、「む」は意志の助動詞の終止形です。
【とばかりを】
「と」は引用の格助詞、「ばかり」は限定の意味の副助詞です。「…ということだけを」という意味になります。
【人づてならで】
「直接に」「人を間に立てずに」という意味になります。当時の貴族たちの恋愛は、手紙のやり取りにしても人を通して伝えたり聞いたりするのが普通でした。「で」は打消の接続助詞です。
【言ふよしもがな】
「よし」は「方法」や「手段」のことで、「もがな」は願望を表す終助詞です。 |
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●伊勢の斎宮の任を解かれて、都に戻った当子(とうし)内親王に贈った歌です。斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所のあったところです。 |
●現在は史跡斎宮跡として整備されています。 |
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●「栄花物語」では、斎宮を引退した当子ですので、それほどの事件ではないという扱いですが、当子は優れた美貌の持ち主で、父帝に愛された皇女でした。
伊勢の斎宮に卜定され、14歳で伊勢へ下向しますが、その際にも別れを惜しんだ父が振り返って見送るほどでした。(お別れの儀式の後、斎宮が退出する際にはお互いにふりかえってはならないという決まりがあった)父帝の譲位により17歳で帰京した時には美しい娘に成長していました。その将来を楽しみにしていた父の三条天皇の怒りは大きく、2人を引き離しまます。通雅は勘当(出仕の差止め)、内親王は兄のもとに引き取られ、初めての恋に悩み苦しんだ末、自らの手で髪を切り尼になったと記されています。その数年後、治安2年(1022)に亡くなりました。
●「今はただ」の歌は43番・藤原敦忠(あつただ)の本歌取りです。「いかにして かく思ふてふ ことをだに 人づてならで 君に語らむ」(どうにかして、このように思っているという事だけでも、人伝でなく、直接あなたにお話したいものです。「後撰集」)詞書には「忍びて御匣殿の別当にあひ語らふと聞きて、父の左大臣の制し侍りければ」とあり、禁じられた恋であったという状況も似ています。また、敦忠と雅子内親王の悲恋もよく知られていました。「源氏物語」の朝顔の巻に「一言、にくしなども人づてならでのたまはせんを、思ひ絶ゆるふしにもせん」に本歌が引用されています。 |
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●斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。三重県多気郡明和町斎宮では毎年、斎王祭が行われています。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「今はただ」の歌碑は、亀山公園にあります。 |
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