世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる ★悩める青年がめざした道とは?-大歌人,俊成の原点★ 百首 一覧
皇太后宮大夫俊成
(こうたいごうぐうのだいぶとしなり)
<1114年~1204年>
藤原俊成(ふじわらのとしなり)。権中納言藤原俊忠(としただ)の子で、百人一首の撰者、97番・定家の父です。86番・西行法師と並んで99番・後鳥羽上皇に賞賛された、平安時代末を代表する歌人です。75歳で「千載集」をまとめ、定家をはじめ多くの門弟を支援しました。91歳で亡くなるまで歌に生きた人生でした。 出展 『千載集』雑・1148



現代語訳

 この世の中には、悲しみや辛さを逃れる道はないものだなあ。思いつめて分け入ったこの山の奥でも、悲しそうに鹿が鳴いているようだ。
鑑 賞
  97番・藤原定家の父、俊成が27歳の時に詠んだ「述懐(じゅっかい)百首」の中の一首です。昔の27歳というと立派な大人で、今で言うならちょうど中年にさしかかる年齢です。周囲の人に比べて厳しい従五位下遠江守(とおとうみのかみ)という地位。なかなか出世できずに悩んでいたといわれています。それに、保元の乱に至る世相の不安など、やりどころのない絶望感は、人生の分岐点に立った俊成の日常生活からはき出された深いため息として読むことができます。「道」というのは、世の中のつらさを逃れる道、方法ということです。平安時代には世俗を離れて出家することでした。この歌が詠まれた保延(ほうえん)6年(1140)頃、86番・佐藤義清(のりきよ:西行法師)をはじめ、俊成と同じ年頃の友人たちが次々と出家していきました。特に4つ年下で、弟のように思っていた義清が行き先も告げず旅に出たことは大きなショックでした。しかし、安らぎを求めて入った山奥にも、雄鹿が妻を求めて悲しい声で鳴いています。この世の中のつらさに逃げ場などない、たとえ出家したとしても救いなどないのだ、そんな嘆きを詠んだのです。
止
下の句 上の句
ことば
【世の中よ】
 「よ」は詠嘆の間投助詞です。「というものは、ああ…」というようなイメージでしょうか。
【道こそなけれ】
 「道」とは手段とか手だてといった意味です。「こそ」は強意の係助詞で「なけれ」は形容詞「なし」の已然形でこその結びとなります。「(悲しみを逃れる)方法などないものだ」という意味。
【思ひ入(い)る】
 「深く考えこむこと」ですが、「入る」は「山に入る=隠遁する」と重ね合わされ、「隠棲(いんせい)しようと思い詰め、山に入る」という意味になります。
【山の奥にも】
 「山の奥」は、俗世間から離れた場所、という意味です。
【鹿ぞ鳴くなる】
 牝鹿を慕う雄鹿が山の中で鳴いている風情は、哀れを誘い和歌では人気がありました。「ぞ」は強意の係助詞。「なる」は推定の助動詞「なる」の連体形で、「鹿が鳴いている」という意味です。
●俊成は、生涯の友である86番・西行法師とともに、99番・後鳥羽上皇に賞賛された、平安時代末を代表する歌人です。90歳には後鳥羽院より長寿を祝う宴を開いてもらっています。後鳥羽上皇の御所としては「高陽院(かやのいん)」が知られています。院政の拠点なった所です。中央区横鍛冶屋町にある石田大成社ビルの入り口に説明板が設置されています。 牝鹿を慕う雄鹿が山の中で鳴いている風情は、哀れを誘い和歌では人気がありました。
作品トピックス
●この歌は、戦乱期であった俊成の青年期に作られたものです。多くの友が出家し、俊成自身も真剣に出家を考えていた中で詠まれました。悲しみに満ちた世の中で和歌の道を究める決意をした、俊成の人生を象徴する歌です。5番・猿丸大夫の「奥山に 紅葉(もみぢ)ふみわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」を本歌とし、29番・凡河内躬恒の「世を捨てて 山に入る人 山にても なほ憂(う)き時は いづち行くらむ」(浮世を捨てて山に入ってしまう人は、山にいてもまだつらいことがあったら、今度はどこへ行くのだろう。「古今集」)をふまえています。
●97番・定家は息子・為家をいさめて、「そのように衣服や夜具を取り巻き、火を明るく灯し、酒や食事・果物等を食い散らかしている様では良い歌は生まれない。亡父卿(俊成)が歌を作られた様子こそ誠に秀逸な歌も生まれて当然だと思われる。深夜、細くあるかないかの灯火に向かい、煤けた直衣をさっと掛けて古い烏帽子を耳まで引き入れ、脇息に寄りかかって桐火桶をいだき声忍びやかに詠吟され、夜が更け人が寝静まるにつれ少し首を傾け夜毎泣かれていたという。誠に思慮深く打ち込まれる姿は伝え聞くだけでもその情緒に心が動かされ涙が出るのをおさえ難い。」と言いました。(心敬「ささめごと」)
●若くして出家した西行とは互いに尊敬しあいながら、歌友として長く交際を続けました。西行の自撰歌集「御裳濯河(みもすそがわ)歌合」には、西行の依頼で俊成が一文を寄せています。「上人円位(しょうにんえんい)壮年の昔より、互いに己れを知れるによりて、二世(にせ)の契りを結び終りにき、おのおの老いにのぞみて後、彼(か)の離居(りきょ)は山河を隔てたりといへども、昔の芳契(ほうけい)は旦暮(たんぽ)に忘るる事なし。」(西行は壮年の昔から互いによく知っていて、すでに二世の契りを結んでいる。二人とも老いて住む場所は離れてしまったが、昔からの友情は忘れていない。)と語っています。
●5番・猿丸大夫の「奥山に 紅葉(もみぢ)ふみわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」を本歌としています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「世の中よ」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。