秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ  わが衣手は 露にぬれつつ ★農民の労働歌が天智天皇の歌になったわけは?★ 百首 一覧
天智天皇
(てんじてんのう)
<626年~671年>
第38代天皇。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)時代、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とともに蘇我(そが)氏を滅ぼし、大化改新を行いました。667年、都を近江(おうみ:滋賀県)の大津に移すと、詩歌の活動を盛んにして中国風の文化を開きます。天武天皇は弟。2番・持統天皇は、天智天皇の娘で、天武天皇の妻です。平安時代には、歴代天皇の祖、国の根本を築いた天皇として尊敬されました。 出典 「後撰集」秋中 ・ 302
同種の和歌



現代語訳
 秋の田のそばにある仮小屋の、屋根を葺(ふ)いた苫(とま)の編み目があらいので、田の番をする私の袖(そで)は夜露(よつゆ)にしっとりぬれていることだよ。

鑑 賞
  田んぼの隅に建てた仮小屋に泊まり、けものが来ないように刈り取った稲の番をしていると、夜も更け、冷たい夜露が屋根からゆっくりしたたり落ちてくる。屋根をふいた苫(とま:スゲ・カヤ)の目が粗くてすき間があるから、夜露は私の袖に落ちてぬれ続けていることだ。農作業で泊まり番をする農民の一夜を描いた歌です。この歌はもともと農民が作った労働歌のようで、「万葉集」にはよみ人知らずの歌「秋田刈る 仮庵を作り 我が居(を)れば 衣手寒く 露ぞ置きにける」として収録されていました。元の歌は農作業のつらさが率直に詠まれていますが、伝えられるうちに、平安時代になってから、天智天皇が農民の苦労を思いやって作られた歌へと変化していったようです。「後撰集」や「古今和歌六帖」に天智天皇の作として載っています。戦乱と抗争に明け暮れた天智天皇ですが、この歌のおおらかな調べの中に、秋の静けさをしみじみ味わっている姿が目に浮かぶようです。定家は静かな余情をもっている歌だとして高く評価しています。
止
下の句 上の句
ことば
【仮庵(かりほ)の庵(いお)】
 「かりほ」は「かりいお」が縮まったもの。農作業のための粗末な仮小屋のこと。秋の稲の刈り入れの時期には臨時に小屋を立てて、けものに荒らされないよう泊まって番をしたりしました。「仮庵の庵」は同じ言葉を重ねて語調を整える用法です。
【苫(とま)をあらみ】
 「苫(とま)」はスゲやカヤで編んだ菰(こも=むしろ)のことです。「…(を)+形容詞の語幹+み」は原因や理由を表す言い方で、「苫の編み目が粗いので」という意味になります。字余りによって歌の流れがいったん止まり、下の句の余情を効果的に引き出しています。
【衣手(ころもで)】
 和歌にだけ使われる「歌語(かご)」で、衣の袖のことです。
【ぬれつつ】
 「つつ」は反復・継続の意味の接続助詞です。ここでは、袖が次第に濡れていくことへの思いを表現しています。
●天智天皇は、都を飛鳥(現在の奈良県飛鳥地方)から近江(おうみ:現在の滋賀県大津市)に遷都しました。天智天皇を祀って昭和1年(1940)に建立された近江神宮は、百人一首の一首目が天智天皇の歌であることから「かるたの殿堂」として知られています。 仮庵(かりいお)は田の脇に建てた小屋です。収穫した稲がけものに荒らされないように見張りました。
 作品トピックス
●97番・藤原定家の日記「明月記」には「古来の人の歌各(おのおの)一首、天智天皇より以来、家隆雅経に及ぶ」と記されています。「百人一首」は、百人の歌人の秀歌集というよりは、和歌で描(えが)いた平安朝の歴史絵巻だと考えると、平安朝の始祖、天智天皇からスタートし、平安朝の終末、順徳院で結ぶという構図がみえてきます。定家が意図的に一番の歌として天智天皇を配置したように思われます。
●もともとは農民が作った労働歌であったものが、作り替えられて天智天皇の歌として「後撰集」に載せられ、やがて農民を思いやる理想的な天皇の歌として解釈されるようになったようです。 
●毎年1月には「かるた名人位・クイーン位決定戦」、7月には「全国高等学校かるた選手権大会(かるた甲子園)」が開催される近江神宮は、「ちはやふる」のヒットによって聖地巡礼をする観光客が多く訪れるようになりました。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「秋の田の」の歌碑は、 奥野宮地区の野宮神社のそば、竹林に囲まれたエリアにあります。