朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに  吉野の里に 降れる白雪 ★忘れない、明け方の吉野の雪景色★ 百首 一覧
坂上是則
(さかのうえのこれのり)
<生没年未詳~930年頃?>
蝦夷(えぞ)を討った征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)から5代目にあたり、坂上好蔭(よしかげ)の子です。代々武人として名を上げた坂上氏ですが、歌人として、蹴鞠(けまり)の名人としても評判が高くかったそうです。35番・紀貫之や29番・凡河内躬恒と並ぶ「古今集」撰集時代の代表的な歌人で、屏風歌や多くの歌合で歌を詠んでいます。三十六歌仙の一人です。 出展 『古今集』冬 ・332



現代語訳

 夜がほのぼのと明けゆくころ、有明の月の光の明るさかと見まちがうほどに、吉野の里に降り積もっている真っ白な雪であることよ。
鑑 賞 
 
「大和の国にまかれりける時に、雪の降りけるを見てよめる」と詞書にあります。是則が、大和権少掾に任ぜられて大和国(やまとのくに:奈良県)に赴いた延喜8年(908年)の冬のことです。吉野の山の近くにある宿に泊まった夜明けにふと目を覚ますと、外がとても明るい。「有明の月が空に輝いているのだろうか?」と思って外を見てみると、淡雪がうっすらと降り積もり、あたり一面が白くやわらかな光に包まれていました。雪明りのせいであったのかという感動が「白雪」という体言止めに表現されています。月の白い光を雪や霜に見立てるのは中国の漢詩でよく行われていた比喩です。中国の詩人・李白の作った「静夜思(せいやし)」に「牀前看月光、疑是地上霜」(寝台の前を見ると月の光が白くさしこんでいて、地上に降りた霜かと見間違えるほどである)の一節があります。是則は、李白の漢詩の見立てを逆にして、雪を月光に見立てたのではといわれています。
止
下の句 上の句
ことば
【朝ぼらけ】
 夜が明けてきて、ほのかにあたりが明るくなってくる頃。おもに冬や秋の朝について用いられます。

【有明の月】
 夜明けの空に残って、明るく光っている月。
【みるまでに】
 この「みる」は、「見る」ではなく、「思う」とか「判断する」という意味。「まで」は極端な程度を表す副助詞で、「思うばかりに」というほどの意味になります。
【ふれる白雪】
 
「る」は、継続を示す助動詞「り」の連体形で、雪がしんしんと降り続いているという意味です。「体言止め」が使われています。
●奈良県の吉野の里は、大和国の歌枕です。平安時代初期は雪、後期には桜の名所として知られるようになっていきました。(満開の桜の中、金峯山寺本堂を望む)桜の木が多いのは、金峯山寺本堂の本尊・蔵王権現の神木が桜だからです。宇多法皇も参詣しています。 多くの歌人が吉野山の雪景色を愛し、歌を残しています。「古今集」の冬の歌には、吉野山の雪を詠んだものが五首あります。
作品トピックス
●吉野は多くの天皇が訪れた地です。656年、吉野川のほとりに斉明天皇が吉野宮を作り、大海皇子(おおあまのみこ:天武天皇)が都から逃れた地でもあります。その妻、2番・持統天皇は、吉野に31回も行幸しています。その後、天武天皇、元正天皇、聖武天皇も行幸したので、付き添った宮廷歌人が吉野の歌を多く残しました。平安時代の人にとって、吉野は雪深く春の訪れの遅い幻想的な地だったのです。「み吉野の 山の白雪 積もるらし 古里寒く なりまさるなり」(今夜は吉野の山では雪が積もっているに違いない。この奈良の古京ではますます寒さが厳しくなってゆくのを感じるのだから。「古今集」)をはじめ、是則も吉野の風景を題材にした歌をいくつか詠んでいます。特別な愛着があったようです。
●夜明けに至る明るさの段階は次の通りです。
 1 暁(あかつき) 夜明け前のまだ暗い頃(30番・壬生忠岑の歌)
 2 東雲(しののめ) 
 まだ明けきらない頃
 3 曙(あけぼの)ようやく空が明るんできた頃
 4 朝ぼらけ
 曙よりさらに明るくなった頃(31番・坂上是則の歌)
 5 朝  朝そのもの   
●是則は、李白の漢詩「静夜思(せいやし)」の見立てを逆にして、雪を月光に見立てたのではといわれています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「朝ぼらけ」の歌碑は、亀山公園にあります。