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(すおうのないし)
<1040年頃~1100年頃> |
周防守(すおうのかみ)・平棟仲(たいらのむねなか)の娘で、本名は仲子(ちゅうし・なかこ)です。父の官名から周防内侍と呼ばれました。後冷泉天皇に仕えました。崩御により宮中を離れましたが、勧められて後三条、白河、堀河、鳥羽と5代の天皇に40年以上も仕えました。女房三十六歌仙の一人で、70歳前後で亡くなったとされています。 |
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『千載集』雑・961 |
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短い春の夜の夢のようにはかないたわむれに、あなたの手枕をお借りしたせいで、つまらぬ恋の浮き名が立ったりしたら、口惜しいではありませんか。 |
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「千載集」には長い詞書があり、この歌の詠まれたいきさつが記されています。陰暦2月頃の月の明るい夜、二条院(後冷泉天皇の中宮の章子のもと)で人々が夜通し楽しく語りあっていた時、作者の周防内侍が眠かったのか「枕がほしい」とつぶやくと、大納言・藤原忠家(ただいえ)が、「これを枕にどうぞ」と言って自分の腕を御簾の下から差し入れてきました。「私と一緒に一夜を明かしませんか。」とからかったのです。それに対し、内侍が機転をきかせて、その誘いをやんわり断る歌を返しました。「かひなく(甲斐なく)」に「腕(かいな)」を掛け、春・夜・夢・手枕と恋情をさそう言葉を散りばめたテクニックは見事です。「恋のうわさが立ち、浮き名を流すのは悔しいですから。」と。これに対して忠家の返歌は「契りありて 春の夜深き 手枕を いかがかひなき 夢になすべき」(前世から深い縁がある私の手枕を、どうしてはかない夢に終わらせてしまうのですか。)でした。「これは運命なのです。私は本気ですよ。」という意味です。もちろん遊び心の応答であって、2人が恋人同士であったわけではありません。機知に富んだ歌のやり取りを楽しんだ華やかな宮廷サロンの様子がわかります。※大納言・藤原忠家(ただいえ)は道長の孫で、97番・定家の曾祖父にあたる人物です。 |
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【春の夜の夢ばかりなる】
「春の夜」は短くすぐ明けてしまうはかないもの、というイメージがあり、「夢」もまたはかないものと考えられています。「ばかり」は程度を示す副助詞で、「なる」は断定の助動詞「なり」の連体形。全体で「短い春の夜の夢のようにはかない」という意味になります。
【手枕(たまくら)に】
「手枕(たまくら)」とは、腕を枕にすることで、男女が一夜を共に過ごした相手にしてあげます。
【かひなく立たむ】
「かひなく」は「何にもならない」「つまらない」という意味になります。また「手枕(たまくら)」にする「腕(かひな)」が掛詞として入っています。「立たむ」の「む」は推量の助動詞で「もし(噂が)立ったら」というような意味になります。
【名こそ惜しけれ】
「名」は「評判」や「浮き名」のことで、「こそ」は係助詞です。全体で「浮き名やうわさが立ったら、口惜しいではありませんか」という意味になります。 |
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●二条院とは藤原教通の邸宅・二条第で、二条南、東洞院東にありました。京都アスニー「平安京創生館」で平安京復元図を手に入れて探してみませんか。 |
●鴨長明「無名抄」には「周防内侍、『われさへ軒の忍草』と詠める家は、冷泉堀川の北と西との隅なり」とあり、周防内侍の邸は、建久の頃(1190年代)まで朽ち残っていたといいます。現在の、堀川通北、夷川通北・二条城内と思われます。 |
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●「新古今集」の時代になると、「春の夜」と「夢」が結びついて恋歌として流行するようになります。その初出がこの歌です。背景には「伊勢物語」における昔男と伊勢斎宮の恋愛や、「源氏物語」花宴巻における光源氏と朧月夜の恋愛のイメージが反映していると考えられます。
●「新古今集」の49番・能宣の恋の歌です。春の夜、女のもとに行って、翌朝、詠み贈った歌です。「かくばかり 寝で明かしつる 春の夜に いかに見えつる 夢にかあるらん」(あれほどまで眠らないで明かした春の夜に、どうして見えた夢なのでしょうか。)夢のようであった夜の逢いを、眠れないのに見えた夢が不思議だと表現しています。 |
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●周防内侍と歌のやり取りをした大納言・藤原忠家(ただいえ)は道長の孫で、97番・定家の曾祖父にあたる人物です。「郁芳門院根合(いくほうもんいんねあわせ)」に出詠した恋の題詠は有名で、歌の4句目「わが下燃えの」の表現から「下もえの内侍」とあだ名されるほど評判になりました。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「春の夜の」の歌は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。 |
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