瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ ★たとえ岩に砕けても!―重なる崇徳院の人生★ 百首 一覧
崇徳院
(すとくいん)
<1119年~1164年>
鳥羽天皇の第一皇子で、第75代天皇。母は美貌で知られる待賢門院璋子(しょうこ)ですが、鳥羽天皇の祖父、白河院の実子ではないかといわれています。藤原頼長とはかり「保元の乱」を起こしますが敗北し、讃岐国松山(現在の香川県坂出市)に流されました。79番・藤原顕輔に編纂させた「詞花集」、百首歌「久安百首」は知られています。 出展 『詞花集』恋・228



現代語訳

 川の瀬の流れが速いので、岩にせきとめられ、急流が2つに分かれてもやがては1つになるように、今はあなたと別れても、いつかはきっとお逢いしようと思います。
鑑 賞
  自然の情景を用いて、恋の現状と将来への決意を巧みに表した恋歌です。山の中を激しく流れる川の水が、岩に当たって堰き止められ、岩の両側から2つに分かれて流れ落ち、再びひとつにまとまる。自らの運命を急流にたとえ、離ればなれになった恋人といつかはまた必ず一緒になろうと訴えています。その強い決意が「ぞ~思ふ」という係り結びに表れています。この歌は、崇徳院が1150年に83番・藤原俊成(しゅんぜい。定家の父)に命じて編纂させた「久安百首」のために詠んだ歌ですが、上の句は「ゆきなやみ 岩にせかるる 谷川の」でした。何度かの改作を経て、「詞花集」に収められる時には、気弱さやためらいが消え、恋情の激しさや強い決意が感じられる今の形になったものと思われます。
止
下の句 上の句
ことば
【瀬を早(はや)み】
 「瀬」は川の浅いところのことです。「~を+形容詞の語幹+み」と続くと、「~が・形容詞・なので」と理由を表す言葉になります。ここでは「川の瀬の流れが速いので」という意味です。
【岩にせかるる 滝川(たきがは)の】
 「せかる」は「堰き止められる」という意味の動詞「せく」の未然形で、後に受動態の助動詞「る」が付きます。「滝川」は、急流とか激流という意味です。上の句全体が序詞で、下の句の「われても」に繋がります。
【われても末(すゑ)に】
 「われ」は動詞「わる」の連用形で、「水の流れが2つに分かれる」という意味と「男女が別れる」という意味を掛けています。「ても」は逆接の仮定で、「たとえ~したとしても」という意味ですので「2つに分かれてたとしても後々には」という意味になります。
【逢はむとぞ思ふ】
 「水がまたひとつに合う」のと「別れた男女が再会する」の2つの意味を掛けています。「きっと逢いたいと思っている」という意味です。
●上の句で、山の中を激しく流れる川の水が、岩に当たって堰き止められ、岩の両側から2つに分かれて流れ落ちる様子を描写しています。 ●明治元年、京都市上京区に白峯神宮が建造され、配流先の讃岐国(香川県)で亡くなった崇徳院の魂は死後700年を経て帰京しました。
作品トピックス
●この歌の原典である「久安百首」を見ると、初句が「ゆきなやみ」、三句が「谷川の」となっていて、恋の思いを詠じたものとしてはふさわしいかもしれません。しかし、「詞花集」では初句が「瀬を早み」、三句が「滝川の」と、崇徳院によって推敲されています。恋の歌ですが、崇徳院の気性の激しさや不遇な生涯をこの歌に重ね合わせると、それ以上に深みを持った歌と考えることもできます。強引に譲位させられた無念の想いが込められている、と解釈する研究者もいます。それほど動的で迫力に満ちた恋の歌です。
●白峯神社の境内の浄心の庭(枯山水)に「瀬をはやみ」の歌碑があります。案内板によると、後方に瀧石を配置し、水の流れを2種類の苔で表したそうです。 ●三重県四日市市にある昭和幸福村公園の歌碑には崇徳院の姿が描かれています。幼い頃より和歌を好み、12歳から宮中で歌会を開きました。