淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜ねざめぬ 須磨の関守 ★千鳥の声とは?―関守にわが身を重ねて★ 百首 一覧
源兼昌
(みなもとのかねまさ)
<生没年未詳。12世紀初頭>
「宇多源氏(うだげんじ)」と呼ばれる名門氏族の出身で、源俊輔(としすけ)の次男または3男です。後に出家して「兼昌入道」と称しました。堀河院歌壇や、76番・関白藤原忠通を中心とした「忠通家(ただみちけ)歌壇」と呼ばれる歌人の集団に属して、1100年~1128年の歌会をはじめ多くの歌合に出席しました。 出展 『金葉集』冬・270



現代語訳

 淡路島から通ってくる千鳥が物悲しく鳴く声に、幾夜目を覚ましてしまったことだろうか、須磨の関守は。
鑑 賞
  詞書に、「関路千鳥(せきぢのちどり:関所のある街道の千鳥)といへることをよめる」と記されているので、兼昌は須磨の地でこの歌を詠んだのではなく、歌合の題詠にあわせて歌の物語世界を創り上げたわけです。平安時代に「須磨」と聞けば誰もが「源氏物語」の須磨の巻を思い浮かべます。須磨に隠退した光源氏が「友千鳥 もろ声に鳴く 暁は ひとり寝覚めの 床もたのもし」(千鳥の群れが声を合わせて鳴く暁は、たった一人で目を覚まし寂しい寝床にいる私も、心丈夫に思われる)と詠んだのをふまえ、わびしい関守の心情を思いやってうたっています。千鳥は冬、水辺に群生する鳥で、哀調を帯びた声で鳴くため、古くから歌や文学の素材とされました。荒涼とした須磨の浦に、海向かいに見える淡路島から千鳥が渡ってくる。その鳴き声に、関守は幾夜眠りを妨げられ、自分の孤独な境遇をひっそりと実感したことでしょう。感情を直接表現せず、遠い昔の関守に孤独な我が身を重ねあわせた余情をさそう歌です。この歌の頃に須磨の関はもう廃止されていましたが、「源氏物語」の須磨の巻を思い起こさせる、寂しげな土地として歌枕になっていました。
止
下の句 上の句
ことば
【淡路(あはぢ)島】
 兵庫県の西南部沖に位置する島です。明石海峡をへだてて須磨(すま)と向かい合っています。
【かよふ】
 「通ってくる」の意味です。他に「(淡路島へ)通う」や、「(淡路島と須磨の間を)行き来する」などの意味であるという説もあります。
【千鳥】
 水辺に住む小型の鳥で、群をなして飛ぶので「友千鳥」「群千鳥」といった言葉もあります。和歌の世界では、冬の浜辺を象徴する鳥で、愛する妻や親しい友人を慕って鳴く寂しい鳥とされていました。その声は高くすき通っていて、きれいな鈴の音のようだといわれます。
【いく夜寝覚めぬ】
 いく晩目を覚まさせられたことだろうか、の意味。「ぬ」は完了の助動詞の終止形です。本来は「いく夜」と疑問詞が入るので、「ぬる」が正しいのですが、語調の面から「ぬ」にしたと思われます。
【須磨の関守】
 須磨は、現在の兵庫県神戸市須磨区で、摂津国(現在の兵庫県)の歌枕。すでに源兼昌の頃にはなくなっていましたが、かつては関所が置かれていました。関守(せきもり)とは、関所の番人です。
●淡路島は兵庫県の西南部沖に位置する島で、明石海峡をへだてて須磨(すま)と向かい合っています。明石海峡は、潮の流れが速い難所でした。現在は明石大橋が架けられています。※淡路島から明石大橋を見た写真 ●須磨は、現在の神戸市須磨区の南海岸で、古くから関所が設けられていました。昔は道幅も狭く通りにくい道であったと思います。須磨の関の場所については、関守町の関守稲荷神社とする説があります。
作品トピックス
●摂津国須磨(現在の神戸市須磨)といえば、平安時代は流罪の地で、在原業平の兄、行平が流されて住んだ場所です。その故実に基づいて創作されたのが、「源氏物語」の須磨の巻です。老いた光源氏が隠退した須磨は、「まどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く」と書かれています。
●16番・在原行平が須磨で詠んだ一首「わくらばら 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩(もしお)たれつつ わぶと答へよ」(たまたま都で私の身の上を聞いてくれる人があれば、須磨の浦で藻(も)から塩水が垂れ落ちるように、涙をこぼして、つらい思いでわびしく暮らしていると答えておいてください。)をふまえて、定家も兼昌の歌を本歌取りして詠んでいます。「旅寝する 夢路は たえぬ 須磨の関 通ふ千鳥の 暁の声」(旅の仮寝にまどろんでみる夢も、ふと途切れて目覚めてしまった。須磨の関路に通ってくる千鳥の寂しい声を、明け方近い寒さの中でしみじみと聞くことだ。「拾遺愚草」) 
●また、土中から掘り出された「長田宮」の石碑の側面に「川東左右関屋跡」と刻まれていたところから、千森川の東側にあったという説もあります。 ●「千鳥」とは水辺に住む小型の鳥(チドリやシギの仲間)全般を指すようです。浜辺の冬の鳥とすると「シロチドリ」だとする意見もあります。シロチドリは淡路島のシンボル・バードです。