玉の緒よ 絶なば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする ★忍ぶ恋の相手はだれ?ー神に仕えた斎院の絶唱★ 百首 一覧
式子内親王
((しょくし(しきし)ないしんのう)
<1149年~1201年>
後白河院の第三皇女で、90番・殷富門院大輔の妹です。「大炊御門斎院(おおいのみかどいつき)」と称されました。賀茂の斉院(さいいん)となり、病のため退下(たいげ)するまでの10年余り神に仕えました。実兄の以仁王(もちひとおう)は敗死、甥(おい)の安徳天皇は壇ノ浦で亡くなるなど、源平の戦いという激動の時代は悲しみの連続でした。新古今集時代の代表的な女流歌人です。 出展 『新古今集』恋一・1034



現代語訳

 私の命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえていると、耐え忍ぶ心が弱ってこの思いを隠すことができなくなってしまうといけないから。
鑑 賞
  この歌は「新古今集」に「百首の歌の中に忍恋(しのぶるこい)を」の詞書が記されていますが、いつどういう状況で詠まれた題詠であるのかはわかっていません。「私の命よ、絶えるのならば今絶えてしまっておくれ。」という上二句の激しい口調に対して、その理由を述べる下の句は、一転してせつなく、悲しい調べに変わります。「このまま生きながらえていると、あの人への恋心を必死で忍んでいる張りつめた思いが弱ってしまうといけないから。」忍ぶ恋が世間に知られてしまうことを恐れる切実さが読者の胸に迫ってきます。題詠の歌ですが、上の句・下の句の調べの強弱の対比が、内親王の心のうねりを表現していて哀れです。式子内親王は後白河院の第三皇女で、約10年間、賀茂の斎院を務めた未婚の女性です。神や仏に仕える生涯を過ごしましたが、詠まれた歌は華やかで美しく、この歌の持つ切実な絶唱が、現実の恋愛体験を想像させたようです。後世、定家との恋愛物語が創作されましたが、秘めた恋人がいたのかは不明です。 
止
下の句 上の句
ことば
【玉の緒】
 もともとは、首飾りなどに使われる玉を貫いた緒(を。ひものこと)のことです。しかしここでは「魂を身体につないでおく緒」の意味で使われています。「絶え」「ながらへ」「よわり」は、緒の縁語で、どれも緒の状態に関係しています。

【絶えなば絶えね】

 「絶えてしまうのなら絶えてしまえ!」という意味の語気の強い言葉です。下二段動詞「絶ゆ」の連用形に完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」と接続助詞「ば」で、順接の仮定条件「絶えてしまうのなら」になります。下の「絶えね」の「ね」は完了の助動詞「ぬ」の命令形で、「絶えてしまえ!」という意味です。

【ながらえば】

 「絶えなば」と同じく、下二段動詞「ながらふ」の未然形に接続助詞「ば」がついて、順接の確定条件を示します。「生き長らえてしまうのならば」というような意味です。

【忍ぶる】
 
「堪え忍ぶ」という意味です。上二段動詞「忍ぶ」の連体形です。
【よわりもぞする】

 係助詞「も」と「ぞ」が重なり、「~すると困る」という意味になります。「ぞ」+「する」で係り結びになります。秘めた恋を堪え忍ぶ気持ちが弱くなって、恋が露見すると困る、というような意味になります。
●後白河院の第三皇女です。11歳で京都・賀茂社に仕える斉院(さいいん)となり、病のため21歳で退くするまでの10年余り神に仕えました。賀茂斎院跡・櫟谷七野(いちいだにななの)神社は、斎王の紫野斎院跡です。式子内親王は、身を清めてこの御所に住みました。 ●97番・定家の日記「明月記」には年上の高貴な女性、式子内親王についての記述が度々あります。式子内親王の歌と結びついて、定家と恋愛関係にあったともいわれましたが、恋人がいたかは不明です。嵯峨の厭離庵庭園には定家卿御塚があります。
作品トピックス
●式子内親王と97番・定家が恋人同士だという説は、式子内親王が「生きてもよ 明日まで人は つらからじ この夕暮を 訪はば訪へかし」(生き長らえて、まさか、明日まで人を薄情だと嘆き苦しむことはないでしょう。今日のこの夕暮れを、訪れるなら、訪れてほしいものです。「新古今集」)という歌を定家に贈ったとする記されているからです。おそらく、歌の批評と指導のためであったと思われますが、いつしか2人の恋愛話に発展しました。
●室町時代の金春禅竹(こんばるぜんちく)は、謡曲「定家」に内親王と97番・定家の悲恋を描きました。身分違いの恋をした定家が、内親王が亡くなった後も忘れられず、その執着が植物の葛(かずら)となって、内親王の墓にまとわりついていたが、旅の僧の祈りによって成仏するという内容です。
●つる性の植物「テイカカズラ」は、この謡曲がもとになって名付けられたといわれています。13歳年上の内親王に定家があこがれを抱いた可能性はありますが、実際の恋人というよりは、和歌の世界での架空の恋愛と見た方がいいようです。なお、内親王の恋人は法然上人であるという説もあります。
●東山区にある後白河院の御所、法住寺(ほうじゅうじ)殿には、式子内親王の和歌の師である83番・藤原俊成とともに、息子の97番・定家も訪れています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「玉の緒よ」の歌碑は、常寂光寺と二尊院の間の長神の杜公園にあります。