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(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)
<1171年~1244年> |
藤原公経(きんつね)、西園寺公経(さいおんじきんつね)とも呼ばれます。内大臣・藤原実宗(さねむね)の子で、源頼朝の妹婿・一条能保(よしやす)の娘を妻にしました。公経の姉は97番・定家の妻です。定家の活躍を支援した人物で、従一位太政大臣にまで昇りつめました。孫の頼経(よりつね)は、鎌倉幕府の4代将軍になっています。京都の北山に別荘・北山第、西園寺を作って隠棲しました。 |
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『新勅撰集』雑・1054 |
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桜の花を誘って散らす嵐の吹く庭の、まるで雪のように降ってゆくものは、実は老いて古(ふ)りゆくわが身なのだなあ。 |
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詞書に「落花をよみ侍りける」とあります。歌の内容から老年になってからの作であると推測できます。春の山から吹き下ろす突風に、桜の花びらがひらひらと舞い落ちる。まるで雪のように「ふっている」けれど、実は「古りている(年老いている)」のは私の姿なのだなあ、としみじみと述懐する歌です。「花さそふ嵐の庭」という表現から桜の花が雪のように舞い散る美しい場面が目に浮かび、それを自分の人生と重ねた対比が見事です。美しい情景の中に、自らの老いを自覚する深さは、幽玄を旨とする定家の好むところでしょう。花や嵐を人間に見立てる擬人法や、「降る」と「古る」を掛詞にするなど、さまざまな技巧も生きています。一見華麗な歌に見えつつも、その華やかさゆえに、背景にある老いの影が際立つ構成で、「私も老いたものだ」いうつぶやきに、繁栄の中でもどうすることもできない老いの訪れ、無常を感じている作者の寂しさがこめられています。 |
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【花さそふ】
「花」という言葉は普通「桜の花」を指します。嵐が桜を誘って散らす、という意味です。
【嵐の庭の雪ならで】
「嵐」は山から吹き下ろす激しい風のことです。「雪」は散る桜の花びらを雪に見立てたもの。「なら」は断定の助動詞で、「で」は打消の接続助詞です。全体で「嵐が吹く庭の雪ではなくて」という意味になります。
【ふりゆくものは】
「ふりゆく」は桜の花びらが「降りゆく」のと、作者自身が「古りゆく(老いてゆく)」のとの掛詞です。花吹雪に老いの姿を重ねています。
【我が身なりけり】
「なり」は断定の助動詞「なり」の連用形で、「けり」は感動を表す助動詞です。今気がついた、と発見した気持ちを表します。 |
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●公経は61歳で出家し、現在の京都市北山に西園寺を建立し、あわせて北山第を建てて住みました。豪華な山荘は、室町幕府三代将軍足利義満が譲り受けて別荘としました。義満の死後、鹿苑寺(ろくおんじ:金閣寺)となりました。 |
●北山第の跡は現在の金閣の北にある古い池「安民沢(あんみんたく)」に残されています。池の中の島には「白蛇の塚」があります。 |
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●「花さそふ」の歌は、北山山荘(西園寺)で見た落花でしょう。9番・小野小町の「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世(みよ)にふる ながめせし間 」を本歌としていますが、契沖(けいちゅう:江戸時代の古典学者)は、97番・定家の歌「花さそふ 庭の春風 跡もなし とはばぞ人の 雪とだに見ん」の影響を指摘しています。
●松尾芭蕉の弟子として有名な俳人、服部嵐雪(らんせつ)の号は、公経の歌「花さそふ」に由来しているといいます。 |
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●金閣寺の鐘楼の釣鐘は、公経が中国から調達したものと伝えられています。 |
●詞書に「落花をよみ侍りける」とあります。歌の内容から老年になってからの作であると推測できます。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「花さそふ」の歌碑は、 奥野宮地区の竹林の小径沿いにあります。 |
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