プロフィール 後鳥羽院

後鳥羽院
(ごとばいん。1180年~1239年)

  第82代天皇。高倉天皇の第四皇子で名前は尊成(たかひら)です。平安時代末期、源平の戦いが続いていた激動の時代に生まれました。平家が西国へ逃れる時、異母兄の4歳の安徳天皇を連れて都落ちしたため、4歳で即位しました。即位の翌年、安徳天皇は壇の浦合戦で入水し、平家は滅亡しました。その後、19歳で4歳の土御門天皇に位を譲り院政を行いました。都は荒廃し、京から鎌倉へ遷都が行われ、貴族の時代から武士の時代が始まろうとしていました。鎌倉との平和を願って93番・源実朝に血縁の娘を嫁がせましたが、実朝の暗殺から鎌倉との関係は悪化するばかりで、ついに承久3年(1221)、倒幕のため挙兵しましたが北条義時に大敗して出家、隠岐へ流罪となりました。都には戻れず、19年後に、60歳で亡くなっています。後鳥羽院は多才多芸で、和歌をはじめ書画、管弦、蹴鞠(けまり)の他、武芸にも秀でていて、凝り性でした。97番・定家らに「新古今集」の編纂を命じるなど、鎌倉初期の歌壇を支えました。後鳥羽院が83番・釈阿(しゃくあ:定家の父・俊成)の九十賀を祝ったのは、15番・光孝天皇と12番・遍昭の故事にならったものといわれています。「新古今集」に35首入集しています。家集「後鳥羽院御集」、歌論書「後鳥羽院御口伝」など、後世に多くの遺産を残しました。隠岐の地では闘牛や刀剣を打つことに興じたと伝えられますが、創作意欲は衰えず「新古今集」の追加・削除を行って隠岐本「新古今集」を編纂し歌会なども開催しました。
代表的な和歌
●「さくら咲く 遠山鳥の しだり尾の ながながし日も あかぬ色かな」(桜が咲く遠い山は、山鳥の尾のように長い長い春の日にずっと眺めていても飽きない美しさであることよ。「新古今集」)
●「見わたせば 山もと霞む 水瀬川 夕べは秋と なに思ひけむ」(見渡すと、山のふもとが霞んで、水瀬川が流れている眺めはすばらしい。夕べの眺めは秋がすばらしいと、どうして思ったのであろうか。「新古今集」水瀬川の離宮で春の夕景色の歌です。)
●「秋ふけぬ 鳴けや霜夜の きりぎりす やや影寒し 蓬生(よもぎふ)の月」(秋が深くなってしまった、鳴けよ、霜の降る夜のこおろぎよ。少し光が寒い、蓬の生え茂った荒れた家の庭の月も。「新古今集」)
●「奥山の おどろが下も 踏(ふ)み分けて 道ある世ぞと 人に知らせん」(奥山のやぶの下をも踏み分けて行って、どのような所にも道がある世の中だということを人々に知らせよう。「新古今集」正しい政道、王道の再興を暗示する、29歳の時の歌です。)
●「治めけん ふるきにかへる 風ならば 花ちるとても 厭はざらまし」(天皇が自ら世を平和に治めていた、いにしえの時代に帰る風であるなら、花が散るとしても嫌うことはすまい。「後鳥羽院御集」建保2年の水無瀬殿の御会での歌です。)
●「思いつつ 経にける年の かひやなき ただあらましの 夕暮の空」(あの人を恋しいと思いながら過ごしてきた長い年月も報われないのだろうか。ただ期待するばかりで夕方の空は暮れていく。「新古今集」)
●「ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山 霞たなびく」(ほのぼのと春が空にやって来たらしいよ。天の香具山に霞がたなびいている。「新古今集」)
●「み吉野の 高嶺の桜 散りにけり 嵐も白き 春のあけぼの」(吉野の高嶺の桜の花びらがいっせいに散ったことだ。風までも白々としている春の夜明けよ。「新古今集」)
●「思ひ出づる 折り焚(た)く柴(しば)の 夕煙 むせぶもうれし 忘れがたみに」(亡き人を思い出した折に、折って焚く柴の夕煙にむせぶことさえうれしい、火葬の煙にむせび泣いたことが思い出されてあの人の忘れ形見だ思うと。「新古今集」後鳥羽院が愛した更衣尾張が亡くなった悲しみの歌。)
●「われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」(我こそはこの島の新たなる島守であるぞ。 隠岐の海の荒き波風よ、我が意に逆らうことなく心して吹けよ。「遠島百首」承久の乱に敗れた後鳥羽院が、隠岐に流されたときの歌です。)
エピソード
●後鳥羽院がまだ四の宮と呼ばれていた4歳の時、平家の都落ちがありました。祖父の後白河院は都に残っていた5歳の三の宮と四の宮を呼び寄せますが、その時後白河院のひざに機嫌よく抱かれた人見知りをしない四の宮に感動して天皇に決まったという話が「平家物語」巻8「山門御幸」に描かれています。4歳で三種の神器(鏡・勾玉・宝剣)がないまま即位しました。宝剣だけは壇ノ浦に沈み見つかりませんでした。
●何事にも積極的で万能の人でした。歌舞音曲を愛し、細工職人を召し抱えて刀剣も自ら打ちました。和歌・書画・蹴鞠(けまり)・水泳・弓馬と多芸多才でした。後鳥羽院は菊の花を愛し、刀や衣類、日用品に菊の花を図案にして入れました。その後、代々の天皇に継承されて、菊の花は皇室のシンボルになりました。
●本物を見ぬく目が確かで、97番・定家、鴨長明、94番・飛鳥井雅経を見出しました。定家は「新古今集」の撰者の一人になりましたが、歌をめぐって意見が対立することも多く、2人の関係は悪化し、後鳥羽院は定家を遠ざけるようになりました。
●「新古今集」の編集にあたっては、定家の日記「明月記」そのほかの記録から、院自身が撰歌、配列などに深く関与し、実質的に撰者の一人であったことが明らかになっています。約2千首の和歌を選定するため、その数倍の和歌が頭に入っていたと思われます。承久の乱(1221)に敗れて隠岐に流された後、「新古今集」は院の心をなぐさめる存在であったようで、改めて千六百首を撰び直した隠岐本「新古今集」も現在に伝わっています。
●後鳥羽天皇は水無瀬(みなせ)の地を好んでいたらしく、臣下を引き連れてしばしば水無瀬離宮に出かけました。配流(はいる)された隠岐にあっても「水無瀬山 わがふるさとは あれぬらん まがきは野らと 人もかよわで」「軒(のき)あれて 誰か水無瀬の 宿の月 すみこみしままの 色やさびしき」というように水無瀬をしのんだ歌を残しています。
●平安後期から中世にかけて熊野詣(熊野三山に参拝すること)が流行しました。後鳥羽院は生涯に28回も熊野詣をしています。その道中の熊野川の船下りを詠んだ歌が残っています。「熊野川 下(くだ)す早瀬の みなれ棹(さお) さすがみなれぬ 波のかよひ路(ぢ)」(熊野川の早瀬を下す舟のさおはよく水に馴れてはいるものの、水に馴れない私には、さすがに珍しい波を分けての路だよ。「新古今集」)
●後鳥羽上皇の御所としては「高陽院(かやのいん)」が知られています。院政の拠点なった所です。中央区横鍛冶屋町にある石田大成社ビルの入り口に説明板が設置されています。 ●後鳥羽上皇は刀を打つこと、菊の花を好みました。焼刃に十六弁の菊紋を毛彫りしたのが、皇室の菊紋(きくもん)のはじまりだそうです。    
●「人も恨めし」の歌を詠んだ9年後、後鳥羽院は時の執権・北条義時に挑み(承久の乱)、敗れて島根県の隠岐島へ流されました。 ●都に帰ることを強く望んでいましたが、19年後に島で亡くなり、遺骨は分骨されて都に戻りました。大原の三千院の奥に後鳥羽院、順徳院陵があります。 ●大原の法華堂(ほっけどう)は、尊快親王(そんかいしんのう:後鳥羽院皇子)と、母・修明門院(後鳥羽院の女御)が、水無瀬の御所の材を用いて、後鳥羽上皇の冥福を祈るために建立しました。