プロフィール 入道前太政大臣

入道前太政大臣
(にゅうどうさきのだいじょうだいじん。1171年~1244年)

  藤原公経(きんつね)、西園寺公経(さいおんじきんつね)とも呼ばれます。内大臣・藤原実宗(さねむね)の子で、源頼朝の妹婿・一条能保(よしやす)の娘を妻にしました。公経の姉は97番・藤原定家の妻になっていて、若くから和歌を好みました。「後鳥羽院当座歌合」をはじめとして、多くの歌合や歌会に出席しています。歌人としては定家の活躍を支援した人物で、公経の歌は、定家が編纂した「新勅撰集」に歌人として4番目に多い30首が採られています。対立していた99番・後鳥羽院と100番・順徳院親子が倒幕を企てた承久の乱(1221)の時には、計画を知って反対したため幽閉され、命を狙われました。院方の敗北によって入京した北条泰時と戦後の処理にあたり、鎌倉幕府に情報をもらした功績で、52歳で従一位太政大臣にまで昇りつめました。孫の頼経(よりつね)は、鎌倉幕府の4代将軍になっています。公経の生きた時代は政治の中心が公家から武士へと変わる激動期でした。政治的手腕とともに、風流人であり、琵琶や書にも優れていました。晩年は舞楽や白拍子に夢中になりました。1231年、61歳で病のために出家しましたが、京都の北山に別荘・北山第、西園寺を作って隠棲し74歳で亡くなりました。
代表的な和歌
●「ほのぼのと 花の横雲 あけそめて 桜にしらむ み吉野の山」(春の曙、花の色合をした横雲がうっすらと明るくなり始め、吉野山は全山埋め尽くす桜によって白じらと姿を現してくる。「玉葉集」)
●「山ざくら 峰にも尾にも 植ゑおかむ 見ぬ世の春を 人やしのぶと」(山桜の若木を、山の頂きにも尾根にも植えておこう。私は見ることが出来ないが、満開に咲き誇る春を、後の世の人々がほめたたえるだろうかと。「新勅撰集」公経が北山に造営した寺・西園寺で詠んだ歌です。「増鏡」の「内野の雪」に、西園寺の豪華な庭園や御堂の描写があり、この歌が引用されています。)
●「露すがる 庭の玉笹 うちなびき 一群(ひとむら)過ぎぬ 夕立の雲」(雨のしずくがたくさん取り着いている、庭の笹の葉、それが風になびき、夕立を降らせたひとむらの雲が過ぎ去っていった。「新古今集」)
●「もみぢ葉を さこそ嵐の はらふらめ この山もとも 雨と降るなり」(嵐山というだけあって、嵐が紅葉を吹き払って、あなたの涙とともに散らしていることでしょう。この水無瀬の山麓でも、紅葉と私の涙が雨のように降っています。「新古今集」水無瀬(大阪)に幾日か過ごしていた時に、嵐山(京都)の紅葉は涙を誘われると言って寄こした人がいて、その返事に添えた歌です。)
●「あはれなる 心の闇の ゆかりとも 見し夜の夢を たれか定めむ」(あなたとの逢瀬は、一夜のはかない夢、悲しい心の迷いという「闇」のゆかりにすぎないのでしょうか。私にはわかりません。だれが判断しましょうか。「新古今集」一夜の契りが愛情からとは思えないと、男の冷たさを恨む女の立場で詠んだ歌です。)
エピソード
●定家が記した日記「明月記」には、「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」とあり、公経の権力は福原に朝廷を移そうとした平清盛をもしのぐ勢いだったようです。宇治の槇(まき)の島、大阪吹田、京都の北山山荘など、名勝の地に豪華な山荘を建てました。吹田の別荘・吹田殿には、有馬温泉の湯をわざわざ運ばせて入浴するなど、ぜいたくと遊びにふける生活を送りました。北山山荘については「増鏡」に「山のたたづまひ木深く、池の心のゆたかに、わたつみをたたへ、嶺より落つる滝のひびきも、げに涙催しぬべくて、心ばせ深く処(ところ)の様なり」と記されていて、別荘の贅沢さは人々の話題となっていたようです。度々の御幸があったことでも西園寺は有名になり、人々はこの家を西園寺と呼ぶようになりました。
●公経が北山第を建立した時、琵琶の宗家であったため、音楽神の妙音弁財天を祀っていました。それを京都御苑内に移転したのが白雲神社・西園寺邸跡です。 ●上京区高徳町にも西園寺があります。公経が衣笠山の麓に菩提寺として壮大な西園寺を建てたのが始まりですが、足利義満が北山殿(金閣寺)を造営したため、この地に移転しました。 ●境内には公経ゆかりの開山堂や「花さそふ」の歌碑があります。
●公経の姉が97番・定家の妻であり、若いころから和歌を好みました。歌人として定家の活躍を支援しています。吉田泉殿は公経の別荘で、定家も度々訪れています。百万編交差点南西角に石碑があります。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「花さそふ」の歌碑は、 奥野宮地区の竹林の小径沿いにあります。