プロフィール 殷富門院大輔
殷富門院大輔
(いんぷもんいんのたいふ。1131年頃~1200年頃)

 従五位下・藤原信成(のぶなり)の娘で、後白河天皇の第一皇女、亮子(りょうし)内親王(=89番・式子内親王の姉、後の殷富門院)に姉とともに仕えました。活発で、有能な女官であったようです。歌を詠むのも早く、千首ぐらいあっという間に詠めると言ったところから、歌の仲間から「千首大輔(せんしゅたいふ)」とあだ名をつけられたといいます。多くの歌合に参加し、当時は、小侍従(こじじゅう)や92番・二条院讃岐と並ぶ女流歌人として有名でした。特に小侍従とは仲が良く、夜通し連歌に興じることもあったといいます。京都白川の85番・俊恵法師の別邸で開かれた「歌林苑(かりんえん)」の歌会の有力なメンバーで、源頼政、87番・寂蓮法師、86番・西行法師らと親交があり、多くの贈答歌が残っています。建久3(1192)年、殷富門院に従って出家して、晩年は、歌道と仏道に励みました。97番・定家や藤原公衡(きんひら)など若い歌人たちを温かく迎え入れる姉御肌の女性として、敬愛されていました。家集に「殷富門院大輔集」があります。定家が撰者の「新勅撰集」には女性で最多の15首が入っています。正治2年(1200)頃、70歳で亡くなったようです。
代表的な和歌
●「春風の かすみ吹きとく たえまより 乱れてなびく 青柳(あおやぎ)の糸」(春風が吹き、立ちこめた霞をほぐしてゆく。その絶え間から、風に乱れてなびく青柳の枝が見える。「新古今集」)
●「花もまた わかれん春は 思ひ出でよ 咲き散るたびの 心づくしを」(桜の花もまた、私と死に別れた次の春は思い出しておくれ。咲いては散る、そのたびに私が心を使い果たしてきたことを。「新古今集」)
●「もらさばや 思ふ心を さてのみは えぞ山しろの 井手のしがらみ」(ひそかに伝えたい、あの人を思うこの気持を。こうして堪え忍んでばかりは、とてもいられない。山城の井手のしがらみだって、水を漏らすではないですか。「新古今集」井手は山城国の歌枕。木津川に注ぐ玉川が流れ、山吹や柵(しがらみ:川などの流れを塞き止めるための柵)がよく詠まれました。
●「はかなしな ただ君ひとり 世の中に あるものとのみ 思ふはや我」(はかないことだ。この世界にあなた一人しか存在しないとでも思っているのだろうか、私は。「殷富門院大輔集」この「はかなし」は、「みじめで情けない」「愚かだ」といった意味です。)
●「よしさらば 忘るとならば ひたぶるに 逢ひ見きとだに 思ひ出づなよ」(それならいいわ。私を忘れるというのなら、すっかり忘れてよ。逢ったとさえ思い出さないでくださいね。「続後撰集」)
●「今はとて 見ざらん秋の 空までも 思へばかなし 夜半の月影」(これがもう最後と、ふたたび見ることのないだろう秋の夜空を眺める――私の死んだ後まで、こうして月は煌々と夜を照らしていると思えば、悲しくてならない。「新勅撰集」)
エピソード
●「無名抄(むみょうしょう)」には大輔と小侍従の歌才を比較した85番・俊恵法師の言葉があります。「近く女歌よみの上手にては、大輔、小侍従とてとりどりにいはれ侍りき。大輔は今少し物など知りて、根強くよむ方(かた)は勝り、小侍従ははなやかに、目驚く所よみ据うることの優れたりしなり」というものです。個性は違いますが、2人とも優れた歌人だと称賛されています。大輔は歌の道に深く学んでいたことや、その教養をふまえて、根強く工夫して詠むことが知られていたようです。技法的には本歌取りや初句切れを多用し、83番・藤原俊成に学んだ、当時先進的な詠みぶりでした。
●行動派の女性で、四天王寺や住吉大社の参詣、比叡山では女人結界まで登り、これより先女は登れないとはくやしいと書き残しています。また、87番・寂蓮法師ら気の合う仲間と奈良まで文学散歩にも出かけました。有名な寺をめぐり、3番・柿本人麻呂の墓や17番・在原業平の遺跡に足を伸ばして歌を詠み交わしています。また、「しほゆあみ」(疲労回復のために海水を沸かして浸る)のために、官人や僧侶たちと難波まで出かけています。どうして誘ってくれなかったのかと、都の俊恵法師から残念がる歌が届いたそうです。
●27歳の97番・定家は日記「明月記」に9月末の出来事を記しています。夜になって降り出した雨に、秋を惜しむせつない気持ちがわきあがり、定家は大輔のもとを訪れます。文学や芸術の話で盛り上がっていると、深夜、同じせつなさを胸に、いとこで親友の藤原公衡(きんひら)まで大輔に会いに馬でやって来ます。大輔は深く感動し他の女房たちも加わって夜明けまで和歌や連歌を楽しんだといいます。
●後白河天皇の第一皇女、亮子(りょうし)内親王(=89番・式子内親王の姉、後の殷富門院)に姉とともに仕えました。活発で、有能な女官であったようです。写真は東山区にある後白河院の御所、法住寺(ほうじゅうじ)殿。 ●建久3(1192)年、亮子(りょうし)内親王は出家しました。女院には宮城(=皇居)の門の名をつける慣習があり、大内裏の西面にある殷富門の名がつけられています。(現在の御前通、天満屋町付近)大輔も殷富門院に従って出家して、晩年は、歌道と仏道に励みました。写真は現在の殷富門付近です。
●97番・定家や藤原公衡(きんひら)など若い歌人たちを温かく迎え入れる姉御肌の女性として、敬愛されていました。定家が撰者の「新勅撰集」には女性で最多の15首が入っています。 ●行動派の女性で、四天王寺や住吉大社の参詣、比叡山では女人結界まで登り、これより先、女は登れないとはくやしいと書き残しています。明治時代には、立ち入りを認める政令が出て女人禁制は廃止となりました。