プロフィール 式子内親王

式子内親王
(しょくし、または、しきしないしんのう。1149年~1201年)

  後白河院の第三皇女で、90番・殷富門院大輔の妹です。「大炊御門斎院(おおいのみかどいつき)」と称されました。平治元年(1159)に11歳で京都・賀茂神社に仕える斉院(さいいん)となり、嘉応元年(1169)に病のため21歳で退下(たいげ)するまでの10年余り神に仕えました。当時政権を握っていた平氏に対して源頼政(みなもとのよりまさ)が挙兵しましたが、治承4年(1180)、実兄の以仁王(もちひとおう)は敗死、寿永4年(1185)甥(おい)の安徳天皇は壇ノ浦で亡くなるなど、源平の戦いという激動の時代は悲しみの連続でした。病弱で、叔母の八条院のもとに身を寄せた時には、八条院と姫君に呪いをかけたと疑われて、建久8年(1197)頃に出家します。建仁元年(1201)に53歳で病死するまで一生を独身で過ごしました。和歌は83番・藤原俊成から学びました。俊成の歌論書「古来風体抄(こらいふうていしょう)」は内親王に献上されたものです。若き日の97番・定家とも会っています。12歳ほど年下だった定家の才能にも敬意を払い、筝(そう)を弾いて聞かせたことなど、定家の日記「明月記」には式子内親王についての記述が度々あります。その中で「怨霊払いの祈祷のような暗鬱(あんうつ)な風習にとらわれない、開放された女性」と評しています。内親王の歌と結びついて、定家と恋愛関係にあったともいわれますが、これは後世になって作られた伝説に過ぎないようです。新古今集時代の代表的な女流歌人で、「新古今集」には女流歌人第1位の49首が入集しています。この「玉の緒よ」の歌は「新古今集」の5人の撰者すべてから選ばれた名歌です。
代表的な和歌
●「忘れては うち嘆かるる 夕べかな われのみ知りて 過ぐる月日を」(忘れては、ついつい嘆いてしまう夕暮れであることよ、人知れぬあの人への恋心を自分だけが知って過ごしてきた、この長い月日のことを。「新古今集」)
●「わが恋は 知る人もなし せく床(とこ)の 涙もらすな 黄楊(つげ)の小枕(をまくら)」(私の恋は知っている人もいないのだ。せきとめている床の私の涙をもらさないで、黄楊の枕よ。「新古今集」当時、恋の最も純粋な美しさは秘めて忍ぶ恋にあると考えられていました。式子内親王の恋の歌は「忍ぶる恋」が特色です。この2首は「玉の緒よ」の後に続く歌です。)
●「生きてよも 明日まで人も つらからじ この夕暮を 問はば問へかし」(生きながらえて、明日まであの人が冷たいと嘆き苦しむことはないでしょう。今日のこの夕暮れに訪れるなら、訪れてほしい。「新古今集」)
●「ながめつる 今日は昔に なりぬとも 軒端の梅は われを忘るな」(物思いに沈みながらじっと見つめている今日という日が、たとえ私が死んで遠い昔のことになったとしても、軒端の梅だけは私のことを忘れないでね。「新古今集」)
●「夕立の 雲もとまらぬ 夏の日の かたぶく山に ひぐらしの声」(夕立を降らせた雲ももうとどまっていない、暑かった夏の日が傾いたこの山に、聞こえるひぐらしの声よ。「新古今集」)
●「ながむれば 衣手(ころもで)涼し ひさかたの 天の川原(かはら)の 秋の夕暮」(しみじみと眺めていると、私の袖も涼しく感じられる。七夕の星の逢う天の川原の秋の夕暮れよ。「新古今集」七夕の星合の日に、空を眺めているうちに涼しい天の川のほとりにいるような感じになったことを詠んでいます。)
●「山深み 春とも知らぬ 松の戸に たえだえかかる 雪の玉水」(山が深いので春だともわからない庵の松の戸に、とぎれとぎれに落ちかかる美しい雪どけのしずくよ。「新古今集」)
エピソード
●定家の日記「明月記」には、19歳の定家が、父の俊成に連れられて斎院(28歳)のもとに初めて訪れた日の興奮や、病がちとなった内親王を気遣う記述があり、年上の高貴な女性へのあこがれが読み取れます。治承5年(1181)正月3日に初めて参上し、お香の匂いが何とも言えず良い感じであった、9月27日には内親王の筝(そう)を聴く、正治2年(1200)12月7日、内親王の足が腫れてお灸をすえられたとか、とても心配だ、とあります。式子内親王が亡くなる前年には、36回も彼女のもとを訪れています。
●式子内親王の歌は、清らかでやさしい調べが魅力です。次の「新古今集」の3首は白楽天の漢詩句から影響を受けていると指摘されていますが、自然の移ろいに心情を重ねて、流れるような和文脈に詠みこなす技は、翻訳の域を超えた「もののあはれ」を感じさせます。「松門暁に到(いた)るまで月は徘徊(はいかい)す」→「山深み 春とも知らぬ 松の戸に たえだえかかる 雪の玉水」(山が深いので春だともわからない庵の松の戸に、とぎれとぎれに落ちかかる美しい雪どけのしずくよ) 「風の竹に生(な)る夜窓の間に臥(ふ)せり」→「窓近き 竹の葉すさぶ 風の音に いとど短き うたたねの夢」(窓近い竹の葉を吹いてもてあそぶ風の音で、そうでなくても短いのに、いよいよ短いうたた寝の夢よ) 「秋の庭掃(はら)は藤杖(とうじょう)を携へて 閑(しづ)かに梧桐(ごとう)の黄葉を踏んで行(あり)く」→「桐の葉も 踏み分けがたく なりにけり かならず人を 待つとなけれど」(桐の落ち葉も、踏み分けにくいほど深く積もってしまったことだ。きっと来るにちがいないと思って、人を待っているというのではないのだけれど)
●斎院(さいいん)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女のことです。下鴨神社楼門です。 ●斎院の御禊や解斎のために参拝した下鴨神社では、今も賀茂祭(葵祭:あおいまつり)にかかわる儀式が行われています。 
●葵祭のためにこもった神館(かんだち)で、夜明けの眺めを詠んだ式子内親王の歌が残っています。「忘れめや 葵を草に 引きむすび かりねの野べの 露のあけぼの」(新古今集)毎年5月15日に行われる葵祭の行列は、京都御所からスタートし、上賀茂神社に到着します。 ●上京区今出川通にある般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)は、嘉楽中学校の隣にあります。陵の西北奥に五輪塔があり、式子内親王の塚と伝えられています。 ●式子内親王を慕った定家が葛となって彼女の墓に巻きついたという説話が能「定家」となりました。塚は「定家葛(ていかかずら)の墓」ともいわれています。塚を守るように鎌倉時代作の石仏がありました。