プロフィール 皇太后宮大夫俊成

皇太后宮大夫俊成

(こうたいごうぐうのだいぶとしなり 1114年~1204年)


  藤原俊成(ふじわらのとしなり)。権中納言藤原俊忠(としただ)の子で、百人一首の撰者、97番・定家の父です。10歳で父を亡くし、葉室顕頼(はむらあきより)の養子として育ちました。顕広(あきひろ)を名乗りましたが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名しました。86番・西行法師と並んで99番・後鳥羽上皇に賞賛された、平安時代末を代表する歌人です。75番・藤原基俊や74番・源俊頼らに学び、その後を継いで独自の歌風を確立しました。27歳の頃、自らの不遇への嘆き、出家への迷いなどを詠んだ「述懐百首」をきっかけに、77番・崇徳天皇歌壇に参加するようになりました。「久安百首」を詠進する14人の歌人に加えられましたが、保元の乱(1156)により崇徳院歌壇が崩壊します。二条天皇の歌壇では「万葉集」を仰ぐ六条藤家の84番・藤原清輔が重用されてました。仁安元年(1167)、俊成は念願の公卿(非参議)となり、翌年、御子左家に戻り、歌壇の指導者として多くの歌合の判者を務めました。歌論書「古来風躰抄(こらいふうたいしょう)」「古今問答」等を著し、余情幽玄の世界を歌の理想としました。その歌は寂しさや悲しさの中に美を見いだす「あはれ」の傾向が見られます。正三位・皇太后宮大夫となり、63歳の時に大病をして出家を決意、釈阿(しゃくあ)と名乗りました。名実ともに歌壇の第一人者となった俊成は、75歳で「千載集」をまとめました。創作、歌論書とも最も充実した時期で、定家をはじめ多くの門弟を支援しました。90歳には後鳥羽院より長寿を祝う宴を開いてもらっています。91歳で亡くなるまで歌に生きた人生でした。家集「長秋詠藻」「俊成家集(長秋草)」等があり、「長秋詠藻」は六家集の一つです。「詞花集」以下の勅撰集に414首が入集、その数は貫之・定家に次いで歴代歌人3位です。美福門院加賀(びふくもんいんかが)は、定家ら二男六女を生んだ俊成の妻です。妻への哀傷歌32首の詞書に「としごろ(長年)の友」と記した、かけがえのない人生のパートナーでした。俊成や定家に「源氏物語」の魅力を説いたのは彼女だといわれています。
代表的な和歌
●「伏見山 松の影より 見わたせば 明くる田の面(も)に 秋風ぞ吹く」(伏見山の松の木蔭から見渡すと、明けてゆく田の面に秋風が吹いている。「新古今集」一面の稲田に吹く秋風の情景です。)
●「駒とめて なほ水飼(か)はむ 山吹の 花の露そふ 井手(ゐで)の玉川」(馬を止めてもっと水を飲まてやろう。山吹の花におりた露がしずくとなって落ちている井手の玉川よ。「新古今集」井手の地は昔から山吹の名所として有名でした。)
●「夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉(うずら)なくなり 深草の里」(夕暮れになると、野原を吹き抜ける秋風が身にしみて、鶉が鳴いていることだ、この深草の里では。「千載集」に載る自讃歌です。俊恵がどれを優れた歌と思うかと俊成に尋ねたところ、俊成はこの歌をあげたと、鴨長明「無名抄」の「俊成自讃歌の事」にありますが、晩年(85歳頃)の俊成は、特筆すべき歌ではないと述べています。)
●「雨そそぐ 花橘(はなたちばな)に 風過ぎて 山ほとときす 雲に鳴くなり」(雨の降りそそぐ橘の花に、風が吹き過ぎると、ほととぎすが雨雲の中で鳴いているのが聞こえる。「新古今集」)
●「面影に 花の姿を 先立てて 幾重越え来ぬ 峯の白雲」(まだ桜は咲いていないのに、心がはやり、白雲を花と見なして、いくつの峰を越えて来たことだろう。「新勅撰集」鴨長明の「無名抄」によれば、人々がそろって俊成の代表作と認めた歌です。)
●「昔おもふ 草の庵の 夜の雨に 涙な添へそ 山ほとときほす」(雨の降る夜、草庵で一人寂しく昔のことを思って涙にくれている私に、いっそう涙を流させないでおくれ、山ほとどきすよ。「新古今集」昔とは公卿として宮中に出仕していた頃のことです。)
●「思ひあまり そなたの空を ながむれば 霞を分けて 春雨ぞ降る」(恋しい思いに耐えかねて、あなたの住んでいる方向の空をじっと見つめていると、霞を分けて春雨が降ることです。「新古今集」詞書には、「雨の降る日、女に詠み贈った歌」とあります。)
●「誰かまた 花橘に 思ひ出でむ 我も昔の 人となりなば」(橘の花の香をかげば、亡き人を懐かしく思い出す。私も死んで過去の人となってしまったら、誰がまた橘の花に私を思い出してくれることだろうか。「新古今集」)
●「一人見る 池の氷に 澄む月の やがて袖にも 映りぬるかな」(ただ独り見ていた池の氷にくっきりと澄んで映っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映っていたことよ。「新古今集」)
●「五月雨は たく藻の煙 うちしめり しほたれまさる 須磨の浦人」(五月雨は海藻を焼く煙も湿らせて降り、一層塩水でぐっしょり濡れる須磨の浦人よ。「千載集」)
エピソード
●99番・後鳥羽院は「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(「後鳥羽院御口伝」)と記しています。※釈阿は俊成の出家後の名前。
●「平家物語」巻7の『忠度都落』と「無名抄」に説話が残っています。平清盛の末弟・平忠度が都落ちをする時に俊成の邸を訪れ、「勅撰和歌集に私の歌を一首でも入れて下さればうれしい。遠いあの世からお守りします」と百余首が収められた巻物を俊成に託しました。俊成は忠度の歌を「詠み人知らず」として一首のみ「千載集」に載せました。そのためか、70歳近かった俊成は更に20年余り長生きしたということです。
●息子定家への情愛は深く、宮中でケンカ騒ぎをおこし殿上から除籍された時には、後白河院に許しを請うため、我が子を葦辺の鶴にたとえた歌「あし鶴の 雲ぢまよひし 年くれて 霞をさへや へだてはつべき」を送りました。また、後鳥羽院主催の百首歌の出詠者から息子が外されると何度も嘆願書を院に送るといった様子でした。 
●「六百番歌合」の判詞(はんし:歌合で判者が優劣を判定して述べる言葉)の中で、「紫式部、歌詠みのほどよりも、もの書く筆は殊勝なり。その上、花宴の巻は、殊に艶なるものなり。源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり。」と言っています。歌作りには「源氏物語」から「もののあはれ」を感じ取るべきだと説きました。
●俊成卿墓所は東福寺の最南端、南明院(なんめいいん)の南側にあります。大小二基の五輪塔の、右手が俊成、左手は冷泉家ゆかりの浄如禅尼の墓ともいわれています。 ●上賀茂神社の末社である太田神社は、かきつばたの名所です。俊成の「神山や 太田の沢の かきつばた 深きたのみは 色にみゆらむ」の歌で知られています。
●俊成の邸宅が現在の松原通(五条大路)にあったところから五条三位と呼ばれました。俊成を祀る俊成社は、ホテル京都ベース四条烏丸前にあり、案内板に「世の中よ」の歌が紹介されています。 ●新玉津嶋神社は、俊成が和歌山県和歌浦の玉津嶋神社から、和歌の神である衣通朗秘姫(そとおりのいらつめ)を分霊したもので、歌人から敬われていました。 ●各地に俊成の歌が紹介されています。「聞き渡る 関の中にも 須磨の関 名をとどめける 波の音かな」の歌碑が神戸市の関守稲荷神社にあります。