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源兼昌
(みなもとのかねまさ。生没年未詳。12世紀初頭の人)
「宇多源氏(うだげんじ)」と呼ばれる名門氏族の出身で、源俊輔(としすけ)の次男または3男です。従五位下・皇后宮少進(しょうじょう)もしくは大進(だいじょう)までの昇進で、役人としては大成しませんでした。1128年には出家していて「兼昌入道」と称しました。堀河院歌壇や、76番・関白藤原忠通を中心とした「忠通家(ただみちけ)歌壇」と呼ばれる歌人の集団に属して活躍し、74番・源俊頼らとともに、百首歌「永久四年百首」に歌を寄せました。1100年~1128年の歌会をはじめ多くの歌合に出席しましたが、後世での歌人としての名声は高くなかったようです。家集は散逸したのか残されておらず、作品も「金葉集」以下の勅撰集に7首だけあります。兼昌は、「源氏物語」の須磨の巻に心を打たれ、主人公の光源氏に思いを寄せていたといいます。この歌は「金葉集」冬の部に収載されたもので、兼昌が初めて選集作者になった記念の作品です。定家はこの「淡路島」の歌をとても気に入って本歌取りしています。 |
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●「望月の 山の端(は)いづる よそほひに かねても光る 秋の空かな」(満月が山の稜線を昇ろうとしている。その準備だとでもいうように、秋の夜空は前もって明るく輝いているよ。「永久百首」八月十五夜の歌です。)
●「夕立に をちの溝河(みぞかは) まさりつつ ふらぬ里まで ながれきにけり」(遠くの里で夕立が降っているようだ。あちらの水路が増水して、雨の降らないこの里まであふれるように流れて来るよ。「永久百首」)
●「夕霧に こずゑもみえず はつせ山 いりあひの鐘 おとばかりして」(夕霧が立ち込めて初瀬山の木々の梢も見えず、日没を知らせる入相の鐘だけが響いているばかり。「詞花集」初瀬山(はつせやま)は奈良県桜井市初瀬の周辺の山で歌枕です。)
●「夕づく日 いるさの山の 高嶺より はるかにめぐる 初時雨かな」(夕日が沈む入佐の山の高嶺から、遥かな距離を巡って来る初時雨であるよ。「新勅撰集」藤原忠通が自邸で開催した歌合での歌です。題は「時雨」。)
●「夕暮の みぞれにしみや とけぬらん 垂氷(たるひ)づたひに 雫(しづく)落つなり」(今日の夕暮は雪から霙に変わって、縮み上がるような冷えも緩んだのだろうか。軒の氷柱をつたって雫がぽとぽと落ちる音が聞える。「永久百首」) |
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●「無名抄(むみょうしょう)」に76番・法性寺殿(忠通)の歌合で講師(こうじ:歌会で歌をよみあげる役目の人)をつとめた兼昌が、74番・源俊頼の歌に感動した話が見られます。俊頼の出詠歌に名前が記されていないことに気が付いた兼昌が、俊頼の顔を見て咳ばらいをして「御名はいかに」とこっそり注意したところ、俊頼は「ただ読み給え」と言います。その詠歌は「卯の花の 身の白髪とも 見ゆるかな 賤(しづ)が垣根も としよりにけり」(卯の花が我が身の白髪のように見えることだなあ、自分同様、賎の伏屋の垣根も年を取ったことだよ。「散木奇歌集」)でした。歌の中に名前が見事に詠みこんであるのを知った兼昌は、しきりにうなずきながら感心していたそうです。 |
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●関守稲荷神社の境内には「淡路島」の歌碑があります。海人が塩を焼き、その煙がくゆり、千鳥の鳴く声ばかりが聞こえる…。そんな寂しい海辺の風景がイメージされます。 |
●76番・法性寺殿(忠通)の歌合によく出席したことが伝えられています。忠通は晩年には出家して、法性寺のそばに別荘を建て、法性寺殿と呼ばれました。 |
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●講師(こうじ:歌会で歌をよみあげる役目の人)をつとめた兼昌が、74番・源俊頼の歌に感動した話が「無名抄(むみょうしょう)」に記されています。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「淡路島」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。 |
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