プロフィール 崇徳院

崇徳院

(すとくいん。1119年~1164年)


  鳥羽天皇の第一皇子で、母は美貌で知られる待賢門院璋子(しょうこ)ですが、鳥羽天皇の祖父、白河院の実子ではないかといわれています。1123年に5歳で第75代天皇に即位しましたが、父に嫌われ、18年の在位の後、強引に譲位させられました。鳥羽上皇(本院)に対し新院と呼ばれました。息子の重仁親王を天皇にと願ったものの、鳥羽上皇の考えで弟の後白河天皇に位を奪われます。上皇の死後、藤原頼長とはかり「保元の乱」(1156年)を起こし、76番・藤原忠通と組んだ後白河天皇と戦いました。しかし、敗北して仁和寺に幽閉された後、讃岐国松山(現在の香川県坂出市)に流されます。鳥羽から船で讃岐国へ下った時に同行したのは兵衛佐局とわずかな女房だけでした。都に帰りたいという願いはかなわず、皇子重仁の死去の知らせからは爪も切らず、髪もとかず、人とも会わぬまま、配流より9年後、46歳で亡くなり、讃岐の白峯に葬られました。幼い頃より和歌を好み、12歳から宮中で歌会を開き、在位中に百首を三度にわたって献上させています。20代後半には、79番・藤原顕輔に「詞花集」を編纂させました。1150年(久安6年)、自身や側近の歌人たち14人の歌を集めた百首歌「久安百首」は知られています。よみ人知らずとして86番・西行の一首が採用になっていることから、身分を越えて信頼関係にあったことがうかがえます。「詞花集」以下の勅撰集に77首入集しています。「久安百首」の部類については、30代の83番・藤原俊成(定家の父)を抜擢(ばってき)しました。俊成は院の歌壇で活躍しましたが、院が讃岐に流された後も交流を持ち、その死を悼む歌を詠んでいます。崇徳院も特に俊成にあてた長歌を遺していました。
代表的な和歌
●「朝夕に 花待つころは 思ひ寝の 夢のうちにぞ さきはじめける」(朝も夕も桜の開花を待っている頃は、それを思って寝る夢の中で、一番最初に咲き始めたのだった。「千載集」「夢中逢花」を主題とし、桜の開花を待ち焦がれて過ごす内、夢の中で桜が咲いたという歌です。)
●「五月雨に はなたちばなの かをる夜は 月すむ秋も さもあらばあれ」(五月雨の降り続く中を、花橘の匂いが強く漂ってくる夏の夜は、月澄む秋の美しさなどどうでもよいと思うほどの魅力だ。「千載集」) 
●「限りありて 人はかたがた 別るとも 涙をだにも とどめてしがな」(服喪には期限があって、その日がくれば人々はあちこちに別れていくが、せめて涙だけでもここにとどめてほしいものだ。「千載集」崇徳院の母、待賢門院が45歳で亡くなり、その一年の喪が明けた時の歌です。) 
●「うたたねは 荻(おぎ)吹く風に おどろけど 長き夢路ぞ 覚(さ)むる時なき」(うたた寝の夢は荻の葉をそよがせて吹く風の音にもすぐ目覚めてしまうが、一生の生死の迷いの夢から覚める時はないものだ。「新古今集」保元の乱に敗れ、讃岐の白峰で詠んだ歌です。) 
●「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(この気持ちをどうぞ察してください、都から遠く離れて海を隔てたここ讃岐にいる心細さを。)(「風雅集」配流先の松山で詠んだ歌です。) 
●「浜千鳥 跡は都へ 通えども 身は松山に 音をのみぞなく」(浜千鳥の足跡(筆跡)は都へ飛び立つことができますが、わが身は都から遠く離れた松山で悲しみの声をあげて泣くばかりです。「保元物語」によると、五部大乗経を送った時に添えた歌です。心細く、悲嘆にくれる生活だったようです。)
●「夢の世に なれこし契り くちずして さめむ朝(あした)に あふこともがな」(夢のようにはかない世で親しんできた縁がこのまま朽ちることなく、迷いの夢から覚めて成仏する朝に、あなたと再び逢いたいものだ。「玉葉集」の詞書に「讃岐国にてかくれさせ給ふとて、皇太后宮大夫俊成にみせよとて書きおかせ給うける」とあり、俊成宛の遺言の歌です。)
エピソード
●崇徳院の棺は白峯へ運ばれましたが、移動の山道で棺から血がしたたり落ちたという、怨念のすさまじさは、「保元物語」にくわしく描かれています。配所で3年かかって書写した五部の大乗経を都に送ったところ、後白河法皇に受け取りを拒否され、讃岐に送り返されると、怒りの余り舌の先を食い切り、その血で大乗経の軸に「日本国の大魔王となりて天下乱り国家を悩まさん」と書いて、讃岐の海深く沈めたといいます。ヒゲや爪を伸び放題に伸ばして「生きながら天狗の姿」になって亡くなったとあります。その後の都での戦乱や大火、飢饉などは、院の怨霊によるたたりだとうわさされました。ただし、吉田経房の日記「吉記」によると、この経典は仁和寺の元性法印(がんしょうほういん:崇徳院の第2皇子、重仁親王の弟)のもとにあり、未供養のままなので、あらためて崇徳の御願寺である成勝寺において供養し、亡き院の怨霊を鎮めたいとの申し入れがあったと記されています。
●「今鏡」の「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で、病気も年々重くなっていったとは記されていますが、自分を配流した者への怒りや恨みといった話はなく、悲しみ嘆く感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はうかがえません。
●西行法師が、崇徳院の葬られた白峰陵を訪ねて、怨霊となった崇徳院と問答をするという話が上田秋成の「雨月物語」の「白峯(しらみね)」に描かれています。魔王となった崇徳院は、世の中の乱れは自分のしわざであることを告げ、敵どもすべてがこの前の海で死に絶えよと叫びます。あさましく恐ろしい光景に涙した西行は、「よしや君 昔の玉の 床とても かからんのちは 何にかはせん」(君主(おかみ)よ、たとえ昔は立派な玉座におられたとしても、お隠れになった今、それが何になりましょう。ただひたすらにご成仏をお祈りいたします。)の一首を捧げて仏に帰依するように勧めます。すると、顔つきも穏やかになり、ついに姿がかき消されてしまいました。
●落語に「崇徳院」という題目があり、「瀬を早み」の歌が使われています。
●「柳の水」は、崇徳院の御所があった所で、清泉がわいていました。井戸に日が当たらないように柳を植えたことから「柳の水」と呼ばれています。今も黒染めやお茶の水に利用されています。 ●安井金毘羅宮は藤寺と呼ばれ、祭神は崇徳院です。境内には崇徳院の愛した見事な藤棚があります。 ●白河北殿は、白河上皇に始まる院政の拠点地として栄えました。保元元年に崇徳院が移り住みましたが、保元の乱の時、平清盛らの軍勢によって焼き払われました。現在は京都大学熊野寮になっています。
●保元の乱に敗れた崇徳院は、右京区御室にある仁和寺に逃れて出家しましたが、讃岐の地(香川県坂出市)に流され亡くなりまた。この地には遺体が葬られた白峯山、上皇が暮らした雲井御所跡など多くの史跡があります。 ●京都市東山区祇園町南側に崇徳天皇御廟があります。崇徳院に仕えた女官・阿波内侍(あわのないし)が、崇徳院の遺髪を埋めて塚を築いた場所です。ここにも「瀬をはやみ」の歌の案内板が掲示されています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。常寂光寺と二尊院の間の長神の杜公園に「瀬をはやみ」の歌碑があります。