プロフィール 源俊頼朝臣

源俊頼朝臣
(みなもとのとしよりあそん。1055年~1129年)

 71番・大納言経信(つねのぶ)の3男で、85番・俊恵法師の父です。堀河、鳥羽、崇徳天皇に仕え、堀河朝の歌壇の中心人物として活躍しました。雅楽の篳篥(ひちりき)を得意とし、堀河天皇の楽人となりましたが、その後和歌の才能も認められ、多くの歌合で作者・判者を務めました。48番・源重之がはじめた「百首歌」を発展させて、当時の有名歌人16人による「堀河百首」を企画・推進します。これによって百首歌の形式が完成しました。また、晩年の70歳で白河法皇の命を受けて「金葉集」の撰者となりました。和歌は非常に技巧的でしかも情感があり、藤原定家が絶賛しています。また、歌人としてだけでなく、和歌の批評家としても高く評価されています。、関白藤原忠実の依頼により、その娘・泰子(高陽院)のための作歌手引書として歌論書「俊頼髄脳(としよりずいのう)」を著しました。保守的な立場の75番・藤原基俊とはライバル関係で対立し、彼の歌は「ざれごと歌」とけなされましたが、斬新な題材と手法を用いた作風は、後世まで大きな影響を与えました。家集「散木奇歌集」十巻を自撰しています。ただ、官職の面では不遇で、51歳から従四位上の木工頭(もくのかみ:木材調達・建築・職人管轄を行う役所の長官)を数年つとめた後は、亡くなるまでの20年間を「前木工頭」として無官で過ごしました。
代表的な和歌
●「山桜 咲きそめしより ひさかたの 雲ゐに見ゆる 滝の白糸」(山桜が咲き始めてから、天高くに流れ落ちるかのように見える花の滝の白糸よ「金葉集」山の斜面を覆い尽くす山桜を、空から流れ落ちる滝に見立てたもので、歌合の判者経信は「きららかによまれたる」とほめています。「百人秀歌」にはこの歌が選ばれていますが、「百人一首」では「うかりける」が選ばれており、歌が異なる唯一の人物です。)
●「風ふけば 蓮(はす)の浮き葉に 玉こえて 涼しくなりぬ 日ぐらしの声」(風が吹くと、蓮の浮き葉の上を露の玉が過ぎてゆき、涼しくなった、蜩(ひぐらし)の声もして。「金葉集」夕立が降った後の景色です。)
●「日暮るれば 逢ふ人もなし 正木(まさき)散る 峰(みね)の嵐の 音ばかりして」(日が暮れてしまうと、山道ですれ違う人もいない。正木のかずらの葉が散る峰の嵐の音だけが聞こえて。「新古今集」深山の落葉を詠んだ歌です。)
●「うづら鳴く 真野の入江の はまかぜに 尾花なみよる 秋のゆふぐれ」(鶉が鳴く真野の入江から吹き寄せる浜風に、穂の出た薄が波のように寄せる、秋の夕暮よ。「金葉集」源通親邸で人麻呂影供(えいぐ)の歌合の時、俊成も「これほどの歌たやすくいできがたし」とほめた代表作の一つです。「後鳥羽院御口伝」では「うるはしき姿なり」とたたえられています。)
●「故郷は ちる紅葉ばに うづもれて 軒のしのぶに 秋風ぞ吹く」(荒れた田舎家は散る紅葉に埋もれて、軒端のしのぶに秋風が吹く。「新古今集」)ふすまの絵に、荒れた宿に紅葉の散り敷いた所が描いてあるのを詠んだ歌です。定家は「近代秀歌」にこの歌を引用し、「幽玄に、面影かすかに、寂しき様なり」と評しています。)
エピソード
●鴨長明の歌学書「無名抄(むみょうしょう)」にも逸話があります。俊頼が関白忠実邸に仕えていた時、傀儡たちが歌った歌の中に「世の中は 憂き身に添へる 影なれや 思ひ捨つれど 離れざりけり」という自分の歌があり「俊頼至り候ひにけりな」(俊頼の歌も、歌う職業の傀儡によって詠われるようになったか)、と感慨深げに座っていたそうです。
●29番・凡河内躬恒と35番・紀貫之のどちらが上かと論じ合った時、決着がつかず、白河院のご意向をうかがおうと言う事になりましたが、白河院は私より第一人者の俊頼に尋ねよと答えました。俊頼は、「躬恒をば侮らせ給ふまじきぞ」とだけ繰り返したといいます。自分の眼識に自信を持ち譲らない人でしたが、尊敬する歌人に対しては謙虚でした。大原に出かけた折、70番・良暹法師の庵の前で下馬して敬意を表したので、人々も感心して下馬したという話が「袋草紙」にあります。
●「無名抄」に『我が名を歌に詠み入るる話』として物名・隠し題の歌があります。「卯の花の 身の白髪とも 見ゆるかな 賎(しづ)が垣根も としよりにけり」(卯の花が我が身の白髪のように見えることだなあ、自分同様、賎の伏屋の垣根も年を取ったことだよ。「散木奇歌集」)法性寺殿(藤原忠通)邸での歌合で、78番・源兼昌が講師(こうじ:歌会で歌をよみあげる役目の人)となって歌を詠みあげる時、俊頼の歌に名が書いてないのに気が付いた兼昌が、俊頼の顔を見て咳払いし、「名前はいかに」と小声で注意したところ、「とにかくお詠み下さい」と言われました。歌の中に名前が詠みこまれているのを知った兼昌は、しきりにうなずきながら感心していたそうです。
●雅楽の篳篥(ひちりき)を得意とし、堀河天皇の楽人となりました。奈良初期に中国から伝来した縦笛の一種です。 ●白河院から命じられて、「金葉集」の編纂に苦労して取り組みました。「うづら鳴く 真野の入江の はまかぜに 尾花なみよる 秋のゆふぐれ」は自信作です。
●一面の薄の原に鶉(うずら)の鳴き声、浜風と、琵琶湖西岸の夕景を詠いあげました。 ●71番・父の経信が晩年に大宰府へと赴任した時には、40歳を越えていた俊頼も同行しました。亡くなるまでの20年間、無官で過ごしました。