プロフィール 三条院

三条院
(さんじょういん。976年~1017年)

  第67代天皇、三条天皇。冷泉(れいぜい)天皇の第2皇子・居貞(いやさだ)親王のこと。母は関白藤原兼家の娘超子(ちょうし)。56番・和泉式部を熱愛して若くして亡くなった為尊親王、敦道親王は、同母弟です。烏帽子(えぼし)姿は外祖父の兼家にたいそう似ていたそうです。おっとりとした親しみやすい性格で、世間の人々から慕われていたといいます。986年に11歳で皇太子となりながら、25年も天皇の位につけず、1011年に36歳で即位しました。しかし、病弱で、失明に至る眼病のため、藤原道長に退位を迫られ、在位からわずか5年で敦成(あつひら)親王(後一条天皇)に位を譲りました。本当の理由は、先帝一条天皇と自分の娘、中宮彰子(しょうし)との間にできた子を次の天皇に即位させ、道長が摂政として政治権力を一手に握りたかったからです。在位中は2回も内裏が火事になるなど不幸続きでした。皇后娀子(じゅうし:大納言済時の娘)の生んだ敦明(あつあきら)親王を、後一条天皇の皇太子に立てることを条件にして、4歳の後一条天皇に位をゆずりました。譲位後まもなく失明し、翌年には出家しましたが、娘の当子内親王と63番・藤原道雅との密通事件などもあり、失意のうちに、42歳で三条院は死去しました。その3か月後、道長の画策で、敦明親王も皇太子を辞退させられます。三条院の歌は高く評価され、「古来風体抄」「後拾遺集」に8首入集しています。66番・行尊は三条院のひ孫です。
代表的な和歌
●「月かげの 山の端(は)分けて 隠れなば そむくうき世を 我やながめむ」(月が山の稜線の間に隠れるようにお前が出家してしまったら、お前が捨てたこのつらい世を、私は一人取り残され物思いにふけりつつ過ごすのだろうか。「新古今集」即位前、長年親しく仕えた藤原統理(むねまさ)が出家の決意を表わした時に、思いとどまらせようと詠んだ歌です。「月」は統理を、「隠れ」は出家することをたとえています。頼みとしていた側近を失う孤独感が伝わってきます。)
●「秋にまた 逢はむ逢はじも 知らぬ身は 今宵ばかりの 月をだに見む」(再び秋に逢えるか逢えないかも分からない身なので、せめて今夜の月だけでも、心ゆくまで眺めよう。「詞花集」)
●「あしひきの 山のあなたに 住む人は またでや秋の 月を見るらん」(山の向こうに住んでいる人は、これほどに待たないで、秋の月を見ているのであろうか。「新古今集」三条院にとって月だけが心の友であったのでしょうか。)
エピソード
●三条院が眼病治療のためにいろいろ手を尽したことは「大鏡」に記されています。氷のはりつめた寒中の冷水を頭に大量に注いだり、金液丹(きんえきたん)という秘薬を服用したり、平癒祈願のため比叡山の根本中堂まで登ったのに少しも効験がなかったそうです。太秦(うずまさ)の広隆寺にもおこもりになりました。物の怪に加えて比叡山の天狗(てんぐ)が悩ませているのだと人々はうわさしました。三条院は一品の宮(中宮妍子が生んだ禎子内親王)を格別かわいがりました。幼い姫宮の髪を手さぐりされて「こんなにも美しくいらっしゃるお髪を見ることができないのが、いかにも情けない、残念だ」とぽろぽろ涙を流されたそうです。
●97番・定家はどうして三条院の歌を選んだのでしょうか。定家が仕え、「新古今集」の編纂を命じた99番・後鳥羽上皇は、鎌倉幕府打倒を企てて失敗し隠岐に流され、その地で没しました。定家の心には、政争に敗れて悲運の死を遂げた後鳥羽上皇と三条院が、重なって感じられたのかもしれません。
●三条院は眼病の平癒祈願のため比叡山の根本中堂まで登ったり、太秦(うずまさ)の広隆寺にもおこもりになりましたが、効果が現れませんでした。物の怪に加えて比叡山の天狗(てんぐ)が悩ませているのだと人々はうわさしました。 ●譲位の後、42歳で三条院は死去し、1017年5月中旬、船岡山の西石陰(にしいわかげ)で火葬されました。火葬塚は鏡石町の公園のそばにあります。
●眼病の悪化は、薬として服用していた水銀が原因ではないかといわれています。娘の当子内親王と63番・藤原道雅との密通事件にも心を痛めました。 ●金閣寺の門前から鏡石通を山沿いに進んだ住宅街の中に三条天皇北山陵(きたやまのみささぎ)があります。三条院はこの地に葬られています。京都市北区衣笠西尊上院(そんじょういん)町。