プロフィール 周防内侍

周防内侍
(すおうのないし。1040年頃~1100年頃)

  周防守(すおうのかみ)・平棟仲(たいらのむねなか)の娘で、本名は仲子(ちゅうし・なかこ)です。父の官名から周防内侍と呼ばれました。後冷泉天皇に仕えました。崩御により宮中を離れましたが、勧められて後三条、白河、堀河、鳥羽と5代の天皇に40年以上も仕えました。天皇側近の女房として欠かせない存在であったようで、女官として正五位下に昇っています。女房三十六歌仙の一人で、「後拾遺集」撰者の藤原通俊(みちとし)や79番・藤原顕輔らとも親交があり、多くの歌合に出席しています。中でも寛治7年(1093年)の「郁芳門院根合(いくほうもんいんねあわせ)」に出詠した恋の題詠は有名で、判者の右大臣源顕房(あきふさ)が絶賛しました。歌の4句目「わが下燃えの」の表現から「下もえの内侍」とあだ名されるほど評判になりました。「後拾遺集」以下の勅撰集に35首入集し、家集「周防内侍集」を残しました。右中将源信宗朝臣とは恋愛関係にあったようですが、夫や子どもについての記録はありません。病のため出家後の1108年頃、70歳前後で亡くなったとされています。
代表的な和歌
●「恋ひわびて 眺むる空の浮雲や わが下もえの煙なるらむ」(恋の辛さに耐えかねて空を眺めると、浮雲がひとひら漂ってゆく。あれは、人知れず恋に身を焦がす私から出た煙なのかしら。という一首を詠み、周防内侍は「下もえの内侍」とあだ名されました。「下もえ」とは、心の底に秘めた燃える恋心という意味です。)
●「住みわびて 我さへ軒の しのぶ草 しのぶかたがた しげき宿かな」(住んでいることがつらくて、私までも去って行くこの家の軒の忍ぶ草よ、その名ではないですが、しのび懐かしむ事がいろいろとあるこの家ですよ。「金葉集」後年、暮らしに困った周防内侍は住んでいた家を人手に渡しました。その時に柱に書き残した歌で、最も知られた歌です。)
●「山桜 惜しむ心の いくたびか 散る木このもとに 行きかへるらむ」(散り始めていた花をあとにして、家路についた。山桜を惜しむ私の心は、いったい幾度、花を散らす木の下を行きつ戻りつするのだろうか。「千載集」)
●「夜をかさね 待ちかね山の ほととぎす 雲ゐのよそに 一声ぞ聞く」(何夜もつづけて待ち兼ねた、待兼山(まちかねやま)のほととぎすの声を、はるか雲の彼方にたった一声だけ聞いた。「新古今集」)
●「契りしに あらぬつらさも 逢ふことの なきにはえこそ 恨みざりけれ」(あなたとはねんごろに契り合った仲なのに、こんなつらい目をみるとは、約束違いです。しかし、逢うこともできないのでは、恨み言を言うことさえできないのです。「後拾遺集」)
エピソード
●「今鏡」に「郁芳門院根合(いくほうもんいんねあわせ)」のエピソードが詳しく記されています。判者の右大臣源顕房(あきふさ)が「あはれ仕うまつりたる歌かな」と言ったので、右の方人(かたうど)たちが「勝ちぬ」と叫んで立ち上がってしまったといいます。ところが、「俊頼髄脳」には、この歌は良い歌だが、人の燃える煙が死を暗示する不吉な歌だと非難する人もいて、作者である周防内侍に凶事が起こるのではないかとうわさされたが、やはり、郁芳門院が若くして世を去ってしまい、周防内侍もその後亡くなったと記されています。
●周防が歌人として信頼されていたことを示すエピソードもあります。「新古今集」の雑下に採られた歌「浅からぬ 心ぞ見ゆる 音羽川(おとわがわ) 堰(せ)き入れし水の 流れならねど」(歌道に浅くないあなたのお心が見えることです。音羽川を堰き止めて引き入れた水の流れではないのですが。)の詞書に、「権中納言通俊が「後拾遺集」を選びました頃、『まず一部でも見たいものです』と申し上げたところ『ご相談した上で決めましょう』といって、まだ清書もしない下書きの本を送ってきましたのを見ての返歌です。」とあります。「後拾遺集」のすばらしさと、撰者である通俊のおくゆかしさをたたえています。
●藤原長子の「讃岐典侍日記(さぬきのすけのにっき)」は、堀川天皇を追慕する回想記ですが、周防内侍の歌が紹介されています。後冷泉天皇が崩御した後、即位した後三条天皇から再び出仕するように勧められて「天の川 同じ流れと 聞きながら 渡らむことは なほぞ悲しき」(同じお血筋とうかがってはおりますが、新しい天皇に引き続き出仕することは、亡き天皇を思うと、やはり悲しく存じます)と詠んだ周防内侍の気持ちがよくわかると述べています。代々の天皇の御代を知っておられる周防内侍なら、私の気持ちを理解してくださるだろうと、歌のやり取りもしています。
●鴨長明、藤原信実らの残した文献によると、周防内侍の手放した家は少なくとも建久年間(1190年代)まで荒廃したまま冷泉堀川北西角に残っていたそうです。柱には確かに「我さへ軒のしのぶ草」の歌が書き付けてあったといいます。一種の名所・聖地のようになっていたようで、後の世の歌人たちはその家を訪れ、かつて宮中の花だった周防内侍をしのんだそうです。実際に86番・西行法師もこの周防内侍旧宅を見学して、「山家集」に「いにしへは ついゐしやとも あるものを  なにをか今日の しるしにはせん」の歌を残しています。
●藤原摂関家の邸宅・高陽院(かやのいん)で開かれた高陽院七番歌合に、92番・二条院讃岐、72番・紀伊とともに参加しています。現在は「高陽院ハイツ」というマンションになり、石田大成社ビル前に説明板があります。 ●住み慣れた家を手放すときに柱に書きつけた歌の忍草はシダ類のノキシノブのことです。山中の樹木や岩、屋根の軒先にも生えます。
●鳥羽離宮(とばりきゅう)は、代々の上皇の院御所で、平安京の南、鴨川と桂川の合流地点にありました。5代の天皇に40年以上も仕えた周防内侍も鳥羽で歌を残しています。 ●鳥羽の城南宮の平安の庭では、当時の歌会や観花会の様子を味わうことができます。鳥羽殿で詠んだ周防内侍の歌です。「朝な朝な 露をもげなる 萩が枝に 心をさへも かけてみるかな」(毎朝、露も重げにたわんでいる萩の花の枝に、いつも心の重さまでもかけて見ることです。「詞花集」左右二組に分かれて、自然の風景をまねた植えこみを作り、その良し悪しや、詠んだ歌の優劣を競う遊びを「前栽(ぜんさい)合わせ」といいます。周防内侍は、露と心との重みで萩の枝が折れそうだと詠んでいます。)