プロフィール 左京大夫道雅

左京大夫道雅
(さきょうのだいふみちまさ。992年~1054年)

  藤原道雅(ふじわらのみちまさ)。関白藤原道隆(みちたか)の孫で内大臣・藤原伊周(これちか)の息子です。「いみじう美しき若君」で、祖父に溺愛されますが、4歳で祖父が病死すると、道長の圧力で父は左遷され、中関白家は没落、絶望の日々を過ごします。18歳頃には、復帰を果たした父が38歳の若さで亡くなり、道雅は政治の表舞台から遠ざけられ、生活はますます荒れていきます。24、25歳の頃に三条天皇が退位し、斎宮であった当子(とうし)内親王が帰京し、この歌に描かれた恋愛事件が起こるのです。道雅は三条院から勘当(出仕の差止め)され、内親王も尼となって数年後、23歳で亡くなってしまいます。道雅は一男一女のあった妻にも去られ、生涯ほとんど官位の昇進もなく不遇のまま過ごしました。博打(ばくち)をやって乱闘事件を起こすなど、自暴自棄(じぼうじき)な言動により、人々からは「荒三位(こうざんみ、あらさんみ)」「悪三位」と呼ばれて、恐れられた道雅ですが、晩年には八条の別荘に閑居して、障子絵歌合を行うなど、和歌の世界に友を得て平穏な生活を送り、63歳で亡くなりました。歌人として目立った活躍もなく、知られている歌も少ないのですが、当子との恋の体験によって生まれた名歌は強い輝きを放っています。「後拾遺集」に道雅の失恋の歌4首が連続して取られているのは、それまでに例がない扱いだといえます。
代表的な和歌
●「もろともに 山めぐりする 時雨かな ふるにかひなき 身とはしらずや」(私と一緒に寺めぐりをしようというのか、時雨よ。降るかいがない、生きている値打ちもないこの身だと知らないのか。「詞花集」東山の寺を回って参拝していた時、山をめぐるように時雨が降ってきたので詠んだ歌です。)
●「逢坂は あづま路とこそ 聞きしかど 心づくしの 関にぞありける」(逢坂の関は、そこを越せば東(あづま)へ通じる道と聞いていたけれども、もう吾妻(あづま)とすることは適わない。逢坂の関と思ったのは、心をすり減らす、筑紫の関だったのだなあ。「後拾遺集」当子内親王と逢えなくなった際に詠んだ歌です。)
●「榊葉(さかきは)の ふゆしてせかけし そのかみに おしかへしても 似たる頃かな」(斎宮であったころのあなたが、榊葉に木綿四手(ゆうしで)を掛けて神を斎(いわ)っておいでのころと全く同じの今の様子では、とてもお近くにまいることはできません。「後拾遺集」)
●「みちのくの 緒絶(をだえ)の橋や これならむ ふみみ踏まずみ 心まどはす」(陸奥(むつ)にある緒絶の橋とはこれのことだったのか。手紙をもらえたりもらえなかったり、その度に心をまどわせる、あなたとのつながりが絶えてしまいはしないかと。ちょうど、いつ断ち切れてしまうかわからない橋を、踏んだり踏まなかったり、ビクビクしながら渡るようなものだ。「後拾遺集」この歌は「栄花物語」によると、「榊葉の」の歌を当子内親王に送ったあと、高欄(こうらん:廊下などにつけたらんかん)に結びつけたとあります。宮の侍女によって届けられたのでしょうか。)
●「涙やは またも逢ふべき つまならむ 泣くよりほかの なぐさめぞなき」(涙がまたあの人に逢うための糸口になるとでもいうのか。そんなわけもあるまいに、今の私にはもう泣く以外には、何の慰めもないのだ。「後拾遺集」)
エピソード
●「大鏡」には、幼少期から青年期の道雅についてのエピソードが記されています。幼い頃の名前を松の君といい、祖父の道隆は、邸に呼ぶたびに必ず贈物をするほど可愛がりました。父の伊周は、「私が亡きあと、名門の子としてあるまじきふるまいをせず、私の面目をつぶして、『いやいや、父君はあのようにご立派であったが、お子様の代になると、こんなざまだよ』と、世間の人にうわされてはならぬ。もし世の中を渡りづらくなったときには、出家するまでだ」と泣く泣く遺言しました。
●道雅の性格は「今昔物語集」巻15に「放逸邪見(ほういつじゃけん)なりける人」とあります。勝手気ままにふるまい、仏法の道理をわきまえないひねくれた心の持ち主という意味です。「小右記」やその他の記録類によると、公的な場所で暴言を吐いたこと、下級官人に暴行を加えたこと、派手な服装で賀茂祭の東宮使を務めたことなどが記され、通雅の荒れぶりは広く知れわたっていたようです。「悪三位(こうざんみ、あらさんみ)」と呼ばれた道雅ですが、その言動は孤独や絶望の表れであるとか、道長へのうらみによる反抗だとかいわれています。頭中将(とうのちゅうじょう)になりましたが8日間で辞めさせられ、結局、官位は従三位左京太夫より上がりませんでした。万寿2年(1025)には、花山院の女王を殺した法師が逮捕され、通雅にやとわれた殺し屋だと白状するという事件、翌年には博打(ばくち)にからんだ乱闘事件を起こし、大さわぎになりました。この話を聞いた道長は、亡兄の孫のひどいありさまに涙したといいます。
●生まれた時は「いみじう美しき若君」で、祖父の関白道隆に溺愛されました。祖母は儀同三司母(貴子)です。しかし、祖父の病死、父・伊周の左遷と絶望的な少年期を過ごしました。 ●下級官人に暴行を加えたこと、派手な服装で賀茂祭の東宮使を務めたことなど、通雅の荒れぶりは広く知れわたっていたようです。「悪三位(こうざんみ、あらさんみ)」と呼ばれました。
●「後拾遺集」には通雅の失恋の歌ばかり4首が連続してとられています。当子内親王と逢えなくなった悲しみを「榊葉(さかきは)の ふゆしてせかけし そのかみに おしかへしても 似たる頃かな」(斎宮であったころのあなたが、榊葉に木綿四手(ゆうしで)を掛けて神を斎(いわ)っておいでのころと全く同じの今の様子では、とてもお近くにまいることはできません。)と詠んでいます。榊(サカキ)は、神事に使われます。 ●「逢坂は あづま路とこそ 聞きしかど 心づくしの 関にぞありける」(逢坂の関は、そこを越せば東(あづま)へ通じる道と聞いていたけれども、もう吾妻(あづま)とすることは適わない。逢坂の関と思ったのは、心をすり減らす、筑紫の関だったのだなあ。)