プロフィール 小式部内侍

小式部内侍
(こしきぶのないし。1000年頃~1025年)

  父は橘道貞(たちばなのみちさだ)、母は56番・和泉式部(「和泉式部日記」で有名)ですが、小式部が生まれた時、「父親は誰に決めましたか。」と人に聞かれたというほど、母は恋多き女性でした。小式部が生まれた翌年には、為尊親王との恋愛が始まり、やがて弟の敦道親王とも結ばれたので、父は我慢しきれず妻の和泉式部を離別します。小式部は母に引き取られて幼少期を過ごします。1009年頃、母とともに一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕えたのは9歳くらいでした。華やかな宮廷生活を送りましたが、母は丹後守・藤原保昌と結婚し、夫とともに任地の丹後に赴くことになりました。和泉式部は小式部を同僚の大輔命婦(たいふのみょうぶ)に託し、「わかれゆく 心を思へ わが身をも 人の上をも 知る人ぞ知る」と詠んで旅立ちました。「大江山」の歌はその頃のものです。64番・藤原定頼とのエピソードは非常に有名で、多くの物語や研究書にも引用されました。歌の才能だけでなく、母から美貌も受け継ぎ、恋多き歌人でしたが、短い生涯の中で、決まった人の妻にはならず幸福な結婚生活はなかったようです。「大江山」の歌でやりこめられた定頼も、小式部の魅力のとりこになり、愛人関係にあったともいわれています。藤原道長の息子たち、次男の右大臣・頼宗(よりむね)と5男の関白・教通(のりみち)、兄弟からも愛されました。寛仁2年(1018年)、教通(のりみち)の男子を出産した時には、道長も喜んで母の和泉式部に歌を贈っています。しかし、教通が内大臣になり、小式部の相手としてはあまりにも高位にすぎたせいか、次第に疎遠になったようです。万寿2年(1025年)には、左中将・藤原公成(きんなり)の子、頼仁(よりひと・らいにん)を生みましたが、お産の直後、病気で亡くなりました。25、6歳頃だったといいます。残された母、和泉式部の嘆きは深く、家集に多くの哀傷歌を残しています。
代表的な和歌
●「見てもなほ おぼつかなきは 春の夜の 霞をわけて いづる月かげ」(いくらよく見ても、やはりおぼつかないのは、春の夜に立ち込める霞を分けて現われる月であるよ。「続後撰集」)
●「春のこぬ ところはなきを 白河の わたりにのみや 花はさくらむ」(春の来ないところはないのに、白河のあたりにだけ花は咲くのでしょうか。私の家にだって花は咲いておりますのに。)「詞花集」二条関白藤原教通が使を送り「白河へ花見に行こう」と言って来たのに対する返事としての歌です。家を訪ねてくれないことを恨み、ここにも花は咲いていますよ、あなたが花を見に来てくれればよいのにと、すねてみせたのでしょう。京都市東北部、鴨川の東の白川流域は、桜見の名所でした。

●「死ぬばかり なげきにこそは 歎きしが 生きてとふべき 身にしあらねば」(あなたのご病気のことをうかがって、私の方こそ死んでしまいそうなくらい嘆きに嘆いておりました。どうせ生きているうちに、晴れてあなたのお宅へお見舞にうかがえるはずもない身の上ですので。「後拾遺集」藤原教通(のりみち)に詠んだ歌です。)
●「いかにせん いくべきかたも 思ほえず 親に先立つ 道を知らねば」(私はもはや生きていられそうにもありません。親に先立って死ぬ不幸を思うと、どうしたらよいか途方にくれるばかりです。)「古今著聞集」には、重い病に苦しみ、もはやこれまでという状態になった小式部が、母和泉式部の顔をつくづくと見て、弱りはてた声で詠みかけたところ、死神が歌に感動して、病はすぐに治ったという話が載っています。  
エピソード
●小式部の死に際して詠んだ56番・和泉式部の歌は、家集に多く残っています。「などて君 むなしき空に 消えにけん あは雪だにも ふればふる世に」は、雪の降る日、亡き娘を悼んで詠んだ一首です。また、「亡くなった娘さんから頂いた服です」と見せられた時には、「もろともに 苔の下にも 朽ちもせで うづまれぬ名を 見るぞ悲しき」(娘とともに苔の下で朽ちることもなく、埋もれないでいる娘の名を見るのは悲しくてならないものです。「金葉集」)と、不意に、亡くなった娘の名に接してこみあげてきた気持を詠んでいます。仕えていた彰子から、小式部が生前来ていた露の模様の唐衣(からぎぬ)を、経巻の表紙にしたいと求められた時には、「おくと見し 露もありけり はかなくて 消えにし人を 何にたとへん」と悲しみを詠っています。
●小式部の歌は「宇治拾遺物語」「袋草紙」などの説話の中にかなりの秀歌が詠み残されています。「宇治拾遺物語」には小式部内侍をめぐる3人の貴公子のエピソードが紹介されています。まず巻3は、経を読む定頼の美しい声に小式部が感動した話です。当時、人気のある女性のもとには貴公子が何人も通ってきました。ある夜、頼宗とデート中に定頼が訪ねてきたのですが、先客があると知って、美しい声で法華経を唱えながら去っていきました。定頼の魅力的な声を耳にした小式部はむせび泣いて頼宗にくるりと背を向けてしまいます。
●巻5は、関白教通に小式部が歌を詠みかけて、愛情がよみがえった話です。逢うことがとだえがちになった頃、教通が大病をわずらいます。やっと快復し、小式部に出会った時「死ぬほど苦しんでいたのに、なぜ見舞いに来なかったのか」と恨み言を言って通り過ぎようとしました。すると、小式部が教通の直衣の裾を引きとめて「死ぬばかり なげきにこそは 歎きしが 生きてとふべき 身にしあらねば」と詠みます。そばで看病したくても、教通には正妻がいます。「生きて」に「行きて」を掛け、身分違いの恋のせつなさを訴えたのです。この歌に教通は感動し、思わず彼女を抱きしめたのです。
●大江山は京都から天橋立に至るまでに2ケ所あります。京都市西京区と亀岡市の境にある大枝山(おおえやま)は、山城と丹波との国境にあります。(京都市右京区大江町)また、福知山市の北にある大江山は、丹波と丹後の国境の山です。(京都府加佐郡大江町)どちらの山にも酒呑童子の伝説が伝えられています。 ●お産の直後に亡くなった小式部は25、6歳でした。残された母、和泉式部の嘆きは深く、弔うために五輪塔を建てたと伝えられています。それが亀岡市にある清泉寺の始まりということです。
●「お母さんがいなくても歌は作れますか」と小式部をからかって、「大江山」の歌でやりこめられた64番・中納言定頼は公任の息子で、小式部の恋人の一人でした。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「大江山」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。