プロフィール 曽禰好忠

曽禰好忠
(そねのよしただ。930年~1000年頃)

 花山天皇時代の歌人で、六位丹後掾(たんごのじょう)という地方官吏を少なくとも10年は勤め、社会的には不遇の一生でした。身分の低さから軽く扱われ「曽丹(そたん)」とか「曽丹後(そたんご)」とあだ名で呼ばれました。そのうち「そた」になってしまうのではないかと本人は嘆いていたといいます。寛和年間(985年~987年)を中心に、「古今風」にとらわれず、歌壇に新風を吹きこんだ異色の歌人です。人の意表をつく歌が多く、その才能を認める人もいましたが、生存中は変人扱いされ、歌壇では孤立した存在でした。死後に見直され、平安後期の歌人から高く評価されました。百十数年を経て編纂された勅撰集「詞花集」には、好忠の歌が一番多く採られています。家集「曽禰好忠集」(通称「曾丹集」)は、庶民の生活を題材としており、他の歌人にない新鮮があります。早苗取る田事や、瓜を植える、麦を刈るなど労働の歌も残しています。また、1年を360首に詠む毎月集をつくったり、一人で百首詠む百首歌をつくったりしました。頭と末を拾うと別の歌ができる沓冠歌(くつかむりのうた)、前の歌の末語を次の歌の頭に使うつらね歌など、新しい形式を追求したものでした。沓冠歌に感動した47番・恵慶法師がこの様式をまねて返歌を作っています。自尊心が強く、がんこでひがみっぽい性格であったらしくその奇行が伝えられています。70歳過ぎまで生きていたようです。
代表的な和歌
●「み苑生(そのふ)の なづなの茎も たちにけり 今朝の朝菜に 何をつままし」(お庭のなずなの茎も伸びてしまった。今朝の朝ご飯のおかずに何を摘んだらよいだろう。「好忠集」)
●「蚊遣火(かやりび)の 小夜更(さよふ)けがたの 下こがれ 苦しや わが身 人知れずのみ」(夜も更けて蚊遣火がくすぶっているように、人知れず恋焦がれているわが身は、まことに苦しいことだよ。「新古今集」)
●「わぎもこが 汗にそぼつる 寝より髪 夏の昼間は うとしとや思ふ」(汗にぬれて乱れた妻の髪を夏の昼間であっても、いやなものだと思うだろうか。いや、思わないだろう。「好忠集」)
●「妹(いも)と我 ねやの風戸に ひるねして 日たかき夏の かげをすぐさむ」(妻と私と、風が吹き入る寝屋の戸口で昼寝して、日が高い夏の暑さをさけて過ごそう。「好忠集」昼寝を詠んだ最も古い歌のようです。)
●「鳴けや鳴け 蓬(よもぎ)が杣(そま)の きりぎりす 過ぎゆく秋は げにぞ悲しき」(鳴けよ鳴け。杣山のように生い茂るよもぎの下にいるこおろぎよ。過ぎ去っていく秋は、おまえが嘆くように本当に悲しいことだね。「後拾遺集」秋の小さな虫に寄り添ったです。)
●「人は来ず 風に木の葉は 散り果てて 夜な夜な虫は 声弱るなり」(人は誰も訪れず、風で木の葉は散ってしまって、夜ごとに虫は声が弱っていくようだ。「新古今集」晩秋のさびしさを、人・木の葉・虫で表現しています。)
●「ひさぎ生ふる 沢べの茅原(ちはら) 冬くれば 雲雀(ひばり)の床(とこ)ぞ あらはれにける」(ひさぎの生える沢辺の茅原も冬になって草が枯れたので、雲雀の巣があらわになってしまった。「詞花集」)
エピソード
●「大鏡」「今昔物語集」「故事談」などに、寛和元(985)年の円融院(えんゆういん)の御幸の歌会に自ら出かけて行った好忠の話が記されています。よく知られたエピソードのようで「今昔物語集」にはこう記されています。院から招かれた歌人たちが着席した後、粗末な狩衣袴(かりぎぬはかま)を着た好忠がやって来て、「自分が招かれぬはずはありません。私はこの参上している方々に比べて歌才が劣るものではございません。」と言って退出しません。若い貴族たちがえり首をつかんで引き倒し、幕の外に引きずり出して踏みつけたので、なりふりかまわず逃げだしましたが、丘の上でふりかえって、「お前らは何を笑うか。歌人たちを召されると聞いて参上した。追い立てられ、けとばされ、それがなんで恥だ。」と叫んだといいます。好忠は和歌はうまかったが、思慮が足らず、末代まで世間の物笑いの種にされたと結んでいます。(ただし、別の本には、最初から招かれることになっていたという記述もあります。)「無名抄」には、好忠は人柄は悪いけれど、歌道には優れているとされています。
●「袋草紙」には、人々からあだ名で呼ばれることを嘆いた話や、高名な歌人であった藤原長能(ながとう)が「鳴けや鳴け」の歌を批判した話があります。「蓬(よもぎ)が杣(そま)」という表現について、「狂惑のやつなり。(狂って道理もわからないやつだ)」というのです。「蓬」は家の庭に茂る雑草、「杣」は木材を採るために植えられた樹木のことで、小さなものと大きなものを組み合わせた表現です。しかし、虫の立場で視線を変えれば、一面の蓬も林のように見えたのでしょう。
●一人でまとめて百首の歌を詠むことを「百首歌」といい、好忠が始めたとされています。最初は私的で遊戯的なものでしたが、いくつかの題を決めて複数の歌人がそれぞれ百首を詠む形になってきました。74番・源俊頼らが編集した「堀河百首」が後世に影響を与えました。
●当時の歌壇からは「正気とは思えないやつだ。あの訳もわからない詠み方は何だ。」と批判されましが、没後に評価が高まりました。なずなや雲雀(ひばり)、きりぎりす(こおろぎ)など、庶民の生活を題材にした歌を詠みました。 ●鳥羽は、鴨川と桂川の合流点にある田園地帯で、貴族たちの楽しむ景勝の地でした。「山城の とばたの面を 見渡せば ほのかに今朝ぞ あき風はふく」(鳥羽の田んぼを見渡すと、今朝は稲穂をそよがせて、秋風があいている「詞花集」)「鳥羽田」は好忠の新造語です。「城南宮~平安の庭」では四季の植物が楽しめます。
●風が抜ける場所で妻と寝て暑さをしのぐ歌を作っています。昼寝を詠んだ最も古い歌のようです。貧しい生活だったようです。 ●円融院が船岡山で野遊びをされた時、召されてもいないのに老いた好忠がやって来て、歌人たちの席に着席したので追い出された説話が残っています。船岡山から平安京が見下ろせます。