プロフィール 権中納言敦忠

権中納言敦忠
(ごんちゅうなごんあつただ。906~943)

 左大臣時平(ときひら)の3男、藤原敦忠(ふじわらのあつただ)です。母は在原業平(ありわらのなりひら)の孫、在原棟梁女(むねやなのむすめ)で、大納言国経(くにつね)の妻でしたが、敦忠を妊娠中に時平が横取りしたため、父の実子ではないという説があります。三十六歌仙の一人で、琵琶(びわ)の名手でもあったので枇杷(びわ)中納言とも呼ばれました。12歳で昇殿を許され、蔵人頭、参議などを経て従三位権中納言となりましたが、38歳という若さで、天慶6年3月7日、惜しまれつつこの世を去りました。早死にの原因は、父・時平が策略により24番・菅原道真を九州に左遷し、その地で亡くなったことのたたりが、一族に及んだせいだと、人々はうわさしました。容貌も美しく人柄もよかったそうで恋多き貴公子でした。斎宮雅子内親王との恋は有名で、家集「敦忠集」にその恋歌が残されています。145首のうち100首近くが雅子内親王との間でかわされた情熱的な贈答歌です。しかし、その恋はかないませんでした。38番・右近とも恋愛関係にありました。風流を好んだ敦忠は、比叡山麓の西坂本に音羽川の水を引き入れた山荘を建てました。19番・伊勢や中務(なかつかさ)親子が山荘に招かれ、その風流な工夫に感動した歌を残しています。
代表的な和歌
●「伊勢の海の 千尋の浜に拾ふとも 今は何てふ かひがあるべき」 (伊勢の広い浜辺で探して見ても、あえなくなった今は、何の貝(甲斐)も見つからない。むなしいだけだ。「後撰集」醍醐天皇の皇女・雅子内親王にも恋をしましたが、斎宮(いつきのみや)に選ばれ、もう逢えないと決まった翌朝、敦忠は歌を榊(さかき)の枝に結び付けて親王に贈りました。)
●「にほひうすく 咲ける花をも 君がため 折りとし折れば 色まさりけり」(彩り淡く咲いた花ですが、あなたのために心を込めて折りましたので、こんなに色が濃くなったのです。「玉葉集」西四条斎宮となった雅子内親王に花をそえて贈った歌です。)
●「今日そゑに 暮れざらめやはと 思へども たへぬは人の 心なりけり」(初めてあなたと結ばれた今日だからと言って、日が暮れないはずはあろうか。そうは思うけれども、夜になるまでの時間を堪えきれないのは私の心であるよ。「後撰集」敦忠の妻となった藤原明子に贈った歌です。)
●「いかにして かく思ふてふ 事をだに 人づてならで 君にかたらむ」(どうにかして、このように思っているという事だけでも、人伝でなく、直接あなたにお話したいものです。「後撰集」明子の父である左大臣・藤原仲平に二人の仲を止められた時の歌です。)
●「わがごとく 物思ふときや ほととぎす 身をうの花の かげに啼くらむ」(ほととぎすは私と同じ様に、何か思い悩む時、我が身の境遇の辛さを嘆いて、卯の花の蔭で鳴くのだろうか。「続古今集」)
エピソード
●「今昔物語」には桜が庭に散るさまを詠んだ敦忠の歌のすばらしさが語られています。左大臣藤原実頼(さねより)が感動して、見劣りする返歌はできないからと古歌を詠じたというものです。敦忠は容姿が美しく、人柄もよいので、世間の評判もはなやかだったと書かれています。
●「大鏡」には敦忠の2つのエピソードが記されています。まず、和歌の名手で、音楽の道にも優れた人物であったことです。敦忠の死後、博雅の三位(ひろまさ:敦忠の甥)が宮中の管弦の催しに欠かせない名手としてもてはやされましたが、昔を知る老人たちが「どうにも情けないことだ。敦忠が生きていた頃には、音楽の道で博雅のいるいないが天下の一大事だとは誰も思わなかった」と嘆いたという話です。また、父・時平が24番・菅原道真を失脚させたため、その怨念で「われは命短き族なり。必ず死なむず(私は短命の血筋だ。きっと早死にしてしまうだろう)」と妻に予言したという話です。また、管弦の名手であった様子も「古今著聞集」に伝えています。
●当時、都で評判の美人であった敦忠の母については「大和物語」「平中物語」「今昔物語」によって伝えられています。谷崎純一郎の小説「少将滋幹(しょうしょうしげもと)の母」はこの北の方をモデルにしています。高齢の大納言藤原国経が、その美しい妻を甥の左大臣藤原時平に奪われた史実をもとにしています。
●琵琶(びわ)の名手であったので枇杷(びわ)中納言とも呼ばれました。 ●容貌も美しく人柄もよかったそうですが,38歳の若さで亡くなりました。父・時平が策略により24番・菅原道真を左遷したたたりではないかと人々はうわさしました。北野天神縁起絵巻は道真の怨霊が雷神となって清涼殿に落雷した様子を描いています。
斎宮雅子内親王との恋は有名で、三重県多気郡にある斎宮跡・歴史の道には、敦忠と雅子内親王の歌碑があります。
●(左)「いせのうみの あまのあまたに なりぬらむ われもおとらず しほをたるれば」(雅子内親王)
●(中)「伊勢の海に 舟を渡して しほたるる あまをわがみと なりぬべきかな」(敦忠)
●(右)「伊勢の海の ちひろのはまに ひろふとも 今は何てふ かひかあるべき」(敦忠)