プロフィール 清原元輔

清原元輔
(きよはらのもとすけ。908年~990年)

  36番・清原深養父(きよはらのふかやぶ)の孫で、62番・清少納言の父にあたります。官位には恵まれず、62歳の時に従五位下、河内(かわち)権守・周防(すおう)守などを経て、従五位上・肥後守(ひごのかみ)として赴任し、任地で990年6月に83歳で亡くなりました。平安中期に活躍した「梨壺(なしつぼ)の五人」の一人として有名です。漢学の知識もあり、5人で「万葉集」を現在のような20巻本の形に整えた訓点打ちの作業や、村上天皇の命による「後撰集」の編纂(へんさん)を行っています。高官の邸に出入りして祝いの歌などを詠んだり、歌合にも多くの歌を詠んで評判になっています。三十六歌仙の一人で、勅撰集には105首も採られました。元輔は、頭の回転が速く、天才的な即吟タイプ、多作の人でした。家集に「元輔集」があります。かたくるしい学者タイプではなく、ウイットに富んだ、明るい人物だったようで逸話が残っています。元輔の性格や才能は、清少納言に受け継がれ「をかし」の文学を開花させたといえます。
代表的な和歌
●「たがためか 明日は残さん 山桜 こぼれてにほへ 今日の形見(かたみ)に」(いったい他の誰のために明日まで花を残しておくことがあろうか、山桜よ。大臣殿のために、散りこぼれて最後の美しさをお見せ申せ、今日の記念として。「新古今集」太政大臣・藤原実頼が京の嵯峨・月輪寺で花見を行った時の歌です。花見には40番・平兼盛、49番・大中臣能宣ら有名歌人が参加しました。)
●「物も言はで ながめてぞふる 山吹の 花に心ぞ うつろひぬらん」(物も言わずに、ぼんやりと眺めて日々を過ごしている。山吹の花の色に私の心が染まってしまったのだろうか。「拾遺集」山吹の花を描いた屏風に添えた歌です。)
●「春は惜し 時鳥(ほととぎす) はた聞かまほし 思ひわづらふ しづごころかな」(春が去り行くのは惜しい。と言って、時鳥の声はやはり聞きたい。あれこれと思いわずらいい、落ち着かない心であるよ。「拾遺集」)
●「天の川 あふぎの風に 霧はれて 空すみわたる かささぎの橋」(天の川は、扇であおぐ風によって霧が晴れて、七月七日の夜空は澄み渡り、かささぎの橋もくっきりと見える。「拾遺集」扇につけられた元輔と中務(なかつかさ:19番・伊勢の娘)の歌が優劣なしの名歌として、一座の者がほめそやした話が、「選集抄」の巻8「扇合事(おうぎあわせのこと)」にあります。)
●「思ひいづや 人めなかりし 山里の 月と水との 秋のおもかげ」(あなたは思い出しますか。人目のない所で二人で見た、山里の月と水の秋の美しい風景を。「玉葉集」8月に、桂川のほとりの里で、水に月が映るのを一緒に見た女性に後で贈った歌です。)
●「冬をあさみ まだき時雨と おもひしを たえざりけりな 老の涙も」(冬は浅く、時雨には早すぎると思ったけれども、絶え間なく降り続くことだなあ、老いを嘆いて泣く私の涙と一緒に。「新古今集」)
●「いかばかり 思ふらんとか 思ふらむ 老いてわかるる 遠き別れを」(私がどれほど悲しいと思っていると、あなたは思っているだろうか。年老いて遠くへと別れるこの別離を。「拾遺集」肥後守として都を下る時、送別の宴で源満仲に贈った歌です。)
エピソード

●「今昔物語」と「宇治拾遺物語」に、大イベントであった賀茂(かも)の祭りの時、奉幣使(ほうへいし)の役に就いていた元輔が、都の大通りで落馬して冠を落とし、見物人の前に禿(は)げ頭をさらしてしまった話が記されています。落ちた冠をつけず、夕日に頭をきらきら輝かせたまま「公達に申し上げるべきことがある。」と、見物人の車のそばに歩み寄って、笑ってはいけない理由を長々と言い聞かせたのです。その後、大路の真ん中に戻って大声で「冠を持ってまいれ」と命じ、冠を取ってかぶったので、人々はますます爆笑しました。馬の口取りの者が「落馬した時すぐに冠をつけずに、なぜ長々としゃべられたのですか。」と尋ねると「物の道理を言い聞かせてこそ、以後、笑わぬようになろう。そうでなければ、口うるさい公達は、いつまでも物笑いの種にするであろうぞ。」と言って行列に加わりました。「今昔物語」の作者はこう結んでいます。「この元輔は世慣れた人物で、何かある際には、決まっておかしなことを言って人を笑わていた老人だったので、このように気後れすることなくしゃべったのだ。」
●元輔の娘である62番・清少納言は「枕草子」104段で、有名な歌人であった曾祖父・清原深養父や父・元輔について中宮定子に次のように語っています。「歌の上手と言われた者の子孫は、少しは人よりましな歌を詠んで『どれそれの時の歌は見事な出来だった。さすがに、元輔の子だけのことはある』と言われればこそ、詠みがいがあります。少しも優れたところがなくて、それでもいかにも歌らしく自分こそはといったふうに得意げに最初に詠むのは、亡き父にも気の毒でごさいます。」有名歌人であった父の名前は、清少納言にとってかなり重荷だったようです。
●「袋草紙」には40番・平兼盛が、歌合のたびに正装をして長時間考え悩み、苦吟(くぎん)しているのを見て、「予は口に任せて之を詠む」つまり、「自分は口に任せて歌を詠むのがふつうで、特に良い歌を詠もうとする時に限り沈思するのだ」と語ったというエピソードがあります。言葉が自然に口をついて生まれてくると言っており、機知を生かして多くの歌を詠んだ、才気あふれる元輔の姿が浮かぶようです。 
●元輔の人柄がわかるエピソードは冠落下事件です。葵祭(賀茂祭)での詳しい説話が残っています。約1500年前に始まった下鴨神社と上賀茂神社の例祭で、京都御所から出発する王朝行列は有名です。 ●船岡山は平安時代の遊びの場でした。正月には若菜を摘み長寿を願った元輔の歌が残っています。「船岡に 若菜つみつつ 君がため 子の日の松の 千代を思ふらむ」元輔の娘である清少納言も「岡は船岡」と「枕草子」でたたえたほど親しまれていました。
●賀茂祭には貴族も庶民も多くの人が見物に訪れました.。(「源氏物語車争図屏風」より) ●元輔の歌碑「塩がすま益したまの 誰かはひとり ありときく しりてももゆる 身をいかにせん」が東北の歌枕の地・多賀城市浮島(うきしま)にあります。 ●東山月輪の辺りに元輔の山荘があったようで、娘の清少納言が、晩年その辺りに暮らしました。今の泉涌寺(せんゆうじ)付近です。