プロフィール 紀友則

紀友則
(きのとものり。845?~905年頃)

  9紀氏は古代以来の有力氏族で、政治の中心にいましたが、9世紀後半や10世紀にはその勢力は衰え、学問や文化面での活躍が目立つようになりました。宮内権少輔有友(くないごんのしょうありとも)の子で、「土佐日記」の作者である35番・紀貫之(きのつらゆき)のいとこにあたりますが、貫之より20歳近く年上だったようです。40歳くらいまで無官であることを嘆いたら、藤原時平から同情の歌が贈られています。その後、土佐掾(とさのじょう)、少内記(しょうないき)を経て大内記(だいないき)に昇進し、醍醐天皇の身近で大事な職務に励むことになりました。三十六歌仙の一人で、当時を代表する歌の名手です。貫之のように新しい技巧を追求する歌人ではなく、内面性の深い表現に優れた歌人でした。「古今集」の撰者に任命されましたが、その完成を見ずに60歳くらいに病気で亡くなりました。秋の頃だったようです。46首の入集は貫之や29番・凡河内躬恒に次ぎます。「古今集」には貫之と30番・壬生忠岑による追悼の歌が収められています。「後撰集」「拾遺集」などの勅撰集に計64首入集しています。家集の「友則集」は、後人によって編集されたものです。
代表的な和歌
●「君ならで 誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る」(あなた以外に誰に見せたらいいのでしょう。梅の花の色も香りも、ものの美しさを知るあなただけ分かってくれるです。「古今集」の詞書には自分の家の梅を一人じめにするのが惜しくて一枝折って知人に贈った時の挨拶の歌です。)
●「音羽山(おとわやま) 今朝(けさ)越え来れば 時鳥(ほととぎす) 梢(こずえ)はるかに 今ぞ鳴くなる」(音羽山を今朝越えて来たら、ほととぎすが梢の向こうで、ちょうどその時、鳴くのが聞こえたよ。「古今集」音羽山は、逢坂の関の南にあり、都の人が東国に旅する時には必ず見られた山です。)
●「さみだれに 物思ひをれば ほととぎす 夜深く鳴きて いづちゆくらむ」(五月雨の音を聞きながら物思いにふけっていると、ほととぎすが夜更けの空を鳴いて飛ぶのが聞こえるが、いったいどこをさしていくのだろうか。「古今集」)
●「よひの間も はかなく見ゆる 夏虫に まどひまされる 恋もするかな」(燈火に惑(まど)わされて飛んでくる夏虫は、宵のうちにでも命がはかなくなりそうだ。そういう私も、恋のために虫以上に迷っているのだが。「古今集」恋歌)
●「夕されば 蛍よりけに 燃ゆれども 光みねばや 人のつれなき」(夕方が来ると私の思いは闇を飛ぶ蛍の火よりもいっそう燃えさかるが、蛍と違って光が見えないから、あの人はこんなにもつれないのだろうか。「古今集」恋歌)
●「わが宿の 菊の垣根に置く霜の 消えかへりてぞ 恋しかりける」(わが家の庭に生い茂った菊におかれた霜は今にも消えそうである。私は心も消え入らんばかりにある人が恋しく思われる。「古今集」恋歌)
●「秋風に 初雁(はつかり)が音(ね)ぞ 聞こゆなる 誰が玉梓(たまづさ)を かけて来つらむ」(秋風に送られて、初雁の声が聞こえてくる、いったい誰からの手紙を携えて来たのだろうか。「古今集」)
●「雪降れば 木ごとに花ぞ 咲きにける いづれを梅 と分きて折らまし」(雪が降ったので、木ごとに花が真っ白に咲いた。この積もった雪の中から、どれを梅だと区別して折ればいいだろう。「古今集」)
エピソード
●「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」や「十訓抄」の説話が有名です。寛平(かんぴょう)年間に宮中で行われた歌合に参加した際、友則は左列にいて「初雁(はつかり)」という秋の題で和歌を競うことになった時、「春霞(はるがすみ) かすみて往(い)にし 雁(かり)がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に」(春霞にかすんで飛び去った雁が、今また鳴くのが聞こえる。秋霧の上に)と詠みました。右列の人々は「春霞」という初句を聞いた時には、秋の歌題であるのに春の景色を詠みだしたので、季節が違うと思って笑い出しました。ところが、第2句で「かすみて往(い)にし」と続いたのでしんとなって聞き耳を立てました。聞き手を引き込んでいく友則の歌づくりの巧みさに感心したのです。これが友則の出世のきっかけになったといいます。なお、この歌は「古今集」では「題しらず よみ人しらず」とされていますが、寛平期(889年~898年)は友則が歌人として一番充実していた時期でした。
●友則は長い間、官位の昇進がなかったようで、「後撰集」に太政大臣・藤原時平との歌のやり取りが残っています。友則が官職に就かないことを不思議に思った時平が、友則に「いくつになったのか」と問うと、「40歳余りになります」と答えたので「今までに などかは花の 咲かずして 四十年(よそとせ)あまり 年ぎりはする」と歌を詠みました。花を咲かせることなく実を結ばないのはなぜかと歌で問いかけたのです。友則はその返歌として「はるばるの 段は忘れずありながら 花咲かぬ木を なにに植ゑけむ」(毎年の春ごとに任官を期待しつづけているのですが、どうせ私は花の咲かない木なのでしょう。)と答えました。その後、土佐掾(とさのじょう)に任じられていたのは、友則の気持ちに同情した時平のひきたてによるものかもしれません。
●「古今集」巻16の哀傷の部に「紀友則が身まかりにける時よめる」として追悼(ついとう)の歌が収められています。深い友情で結ばれた関係が伝わってきます。貫之「明日知らぬ わが身と思へど 暮れぬ間の 今日は人こそ 悲しかりけれ」(私だって明日の運命がわからないことは承知しているのだが、こうしてまだ生きている今日という間は死んだ彼のことが悲しくて、他のことを考える余裕がないのだ)忠岑「時しもあれ 秋やは人の 別るべき あるを見るだに 恋しきものを」(一年の季節もいろいろあるのに、よりによってこの秋に人が永の別れを告げていいのだろうか。生きて元気である友達を見ていたって心細くなるというのに。)
●友則は「古今集」の撰者に任命されましたが、その完成を見ずに60歳くらいに病気で亡くなりました。「古今集」には四季の花々や鳥、恋など、40首あまりの歌が収集されています。 ●満開の桜は雲や霞に例えられることが多いのですが、友則は、吉野山の満開の桜を雪にたとえています。「みよし野の 山辺にさける桜花 雪かとのみぞ あやまたれける」
●京都の東、音羽山の中腹にある音羽山清水寺は、平安時代「観音様のおわす世界」といわれて、庶民にも親しまれてきました。 ●「時鳥(ほととぎす)」を詠んだ歌も3首あります。