プロフィール 坂上是則

坂上是則
(さかのうえのこれのり。生没年未詳~930年頃か)

 蝦夷(えぞ)を討った征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)から5代目にあたり、坂上好蔭(よしかげ)の子です。代々武人として名を上げた坂上氏ですが、歌人として、蹴鞠(けまり)の名人としても評判が高くかったそうです。908年から924年までの任官記録があり、官位は大和権少掾(やまとのごんのしょうじょう)、小内記(しょうないき)、大内記(だいないき)などを歴任し、従五位下・加賀介(かがのすけ)となりました。内記とは天皇の命令書を書いたり、御所の記録などをつかさどる仕事で、文筆の上手い官人や学者が就任しました。35番・紀貫之や29番・凡河内躬恒と並ぶ「古今集」撰集時代の代表的な歌人で、屏風歌や多くの歌合で歌を詠んでいます。三十六歌仙の一人です。家集に「坂上是則集」があります。
代表的な和歌
●「み吉野の 山の白雪つもるらし ふるさとさむく なりまさるなり」(今夜は吉野の山では雪が積もっているに違いない。この奈良の古京ではますます寒さが厳しくなってゆくのを感じるのだから。「古今集」奈良の都に出向した時の歌です。吉野の白雪は感慨深かったようです。)
●「もみぢ葉の 流れざりせば 竜田川 水の秋をば 誰か知らまし」(もみじの葉が後から後から流れてきて、竜田川の水を美しくいろどっている。もしこの紅葉がないならば、川の水に秋が来たことを誰に知れるだろうか、誰も知ることはできまい。「古今集」)
●「わが恋に くらふの山の さくら花 間(ま)なく散るとも 数はまさらじ」(私の恋にくらふの山の桜の花を比べたらどうだろうか。花がどれだけ絶え間なく散ったところで、私があの人を恋しく思う回数には勝るまい。「古今集」くらふ山は京都市北区にある鞍馬(くらま)山の古名です。)
●「わたの底 かづきてしらむ 君がため 思ふ心の ふかさくらべに」(海の底に潜って確かめよう。私があなたのことを思う心がどれほど深いか、その深さを海と比較しに。「後撰集」)
●「恋しさの 限りだにある 世なりせば 年へて物は 思はざらまし」(せめて恋しさに限りのあるこの世であったなら、これほど何年にもわたって思い悩むことはないだろうに。「続古今集」)
●「逢ふことを 長柄の橋の ながらへて 恋ひわたるまに 年ぞへにける」(逢うことがないまま、長柄の橋のように生き長らえて、恋し続けるうちに年を経てしまったよ。「古今集」長柄の橋は摂津国の歌枕で淀川に架かっていた橋です。たびたび水害に遭って流されました。)
エピソード
●延喜5年(905年)3月2日、宮中の仁寿殿で行われた蹴鞠(けまり)の会で、是則は206度も連足で蹴って一つも落とさないという活躍でした。感激した醍醐天皇から絹のほうびを賜ったという話が伝わっています。平安時代のリフティング王というところです。(「西宮記(さいきゅうき/さいぐうき)」)  
●是則は、蝦夷(えぞ)を討った征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)から5代目の子孫です。 ●是則は蹴鞠が得意でした。蹴鞠は革製の鞠(まり)を地面に落とすことなく蹴り続ける球技です。写真は京都御所にある蹴鞠の庭です。
●蹴鞠はいかに蹴りやすい鞠を相手に渡すかという精神で行われます。 ●「わが恋に」に詠われた「くらふの山」は、京都市北区の鞍馬山(くらまやま)です。古くは暗部山(くらぶやま)といわれ、杉やひのきの大木におおわれた暗い所で訪れる人も少なかったようです。写真は中腹にある鞍馬寺です。