プロフィール 貞信公

貞信公
(ていしんこう 880年~949年)

 藤原忠平(ただひら)のことです。関白太政大臣、藤原基経(もとつね)の四男で、月足らずの7カ月で生まれました。世間の人々は、兄・時平(長男)、仲平(次男)とともに「三平(さんぺい)」と呼んだそうです。妹の穏子は醍醐天皇の皇后です。時平の死後、氏の長者となって政治の実権を握り、従一位関白太政大臣の座まで出世し、小一条の太政大臣と呼ばれました。子の実頼を左大臣に、師輔を右大臣にし、藤原氏が栄える基礎を固めました。百人一首の歌人の中で、忠平の子孫は97番・藤原定家を含めて20人弱もいます。天皇にも影響力を持つ政治家でしたが、大らかで上品な人柄でした。異母兄の時平によって大宰府に左遷された24番・菅原道真とも交流は絶えなかったそうです。歌人というよりはまじめな仕事人間のタイプだったようで、誠実な人柄が信望を集めました。残る歌はわずかで、勅撰集には13首選ばれています。貞信公は、71歳で亡くなってからの諡(おくりな:生前の行いに基づいて死者に贈る称号)です。日記に「貞信公記」があります。
代表的な和歌
●「春の夜の 夢のなかにも 思ひきや 君なき宿を ゆきて見むとは」(はなかく短いという春の夢の中でさえ、思っただろうか。あなたのいないこの邸に来てみようとは。「後撰集」亡き兄・時平の喪に服して詠んだ歌です。)
●「折りて見る かひもあるかな 梅の花 ふたたび春に 逢ふ心ちして」(折ってみる甲斐もあることよ、この梅の花は。再び春のめでたい時にあう気持ちがして。「続後撰集」兄・仲平が初めて右大臣になったのを祝福しに訪問した際、兄弟そろって大臣になった喜びを詠んだ歌です。忠平は兄より先に大臣になったのを気にしていたそうで、梅を折って、冠にさしてこの歌を詠みました。)
●「隠れにし 月はめぐりて 出(い)でくれど 影にも人は 見えずぞありける」(妻が亡くなった去年の月と同じ月がめぐってきました。また、隠れてしまった月もその姿を現しましたけれど、亡き人は月の光に面影さえ見ることはできません。「続後撰集」「大和物語」4月4日に亡くなった北の方の一周忌の法事の準備をしながら、美しい月夜に縁側に出てしみじみと妻との思い出に浸っているのです。)
●「脱ぐをのみ 悲しと思ひし 亡き人の 形見の色は またもありけり」(今まで、亡くなった妻の形見として、喪服をなつかしい思いで身に付け、脱ぐことを悲しいものと思っておりましたが、今、その妻の父君の宇多法皇のおとりなしで、禁色のお許しがでますと、裳のあけた色も、亡くなった妻をしのぶもので、形見の色がもう一つできたことですよ。「大和物語」当時は階位によって着物の色が定められていて、天皇・皇族・貴人以外の着用を禁止する色がありました。その禁色を宇多法皇によって許されたのです。忠平は蘇芳(すおう)がさね着て、妹・穏子のもとを訪れ、この歌を詠んで泣いたそうです。)
●「君がため 祝ふ心の ふかければ ひじりの御代の あとならへとぞ」(あなたのためにお祝い申し上げる心が深いので、聖代の手跡をお習いなさいと、この御本を差し上げます。「後撰集」村上天皇が皇子の頃、忠平が習字の手本を差し上げた際の贈歌です。村上天皇は妹・穏子の息子です。)
エピソード
●「大和物語」には、亡くなった北の方を一周忌の月のきれいな夜にしのんだ話、、梅の花に例えて兄・仲平の昇進を祝った話も記されていて、温厚で思いやりの深い人柄があったことがうかがわれます。この北の方は宇多上皇の皇女頎子(きし)で、母は24番・菅原道真の娘だったので、菅原の君と呼ばれました。「古事談」によると、ある時、人相を見る人が忠平を見て「あの方は才能・心がまえ・容姿を兼ね備えていて、末長く国政にかかわる相をしている。」と言ったので、宇多天皇が娘を嫁がせたと記されています。
●「大鏡」によると、忠平は、兄の時平、仲平とともに「三平」と呼ばれていたとして、忠平が宮中の紫宸殿で鬼を退治したという話が残されています。ある夜、紫宸殿の玉座の後ろを通る時、妙な気配がして、忠平の太刀の鞘(さや)の先をつかむ者がいるので、探ってみると爪が長く毛むくじゃらの、刀の刃のような鬼の手でした。そこで、「天皇の命令で政務に向かう者を妨げるとは何者だ。その手を放さぬと、身のためにならぬぞ。」と叱りつけて、太刀を引き抜き鬼の手を捕まえたので、鬼はうろたえて逃げてしまったといいます。温厚さの反面、肝(きも)のすわった人物であったようです。
●同じく「大鏡」には、忠平が幼少より聡明であった逸話も記されています。父・基経が極楽寺を建てる指図のために外出した時、一緒に牛車に乗っていた忠平が、ちょうど法性寺の前で「お父さん、こここそ、お寺を建てるには良い場所のようです。ここにお建てなさい。」と言いました。基経が車から出て見てみると、確かに絶好の場所に見えたので「なるほど、それならここにはお前の寺を建てるがよい。」と言い、法性寺が建立されたのです。
●東山区本町にある法性寺(ほつしょうじ)は、10世紀前半に忠平が営んだ寺です。藤原氏の隆盛と共に寺域も拡大し、76番・関白藤原忠通がこの寺に入り「法性寺殿」と呼ばれました。しかし、藤原氏の没落と共に衰退し、現在は小さな尼寺として残っています。 ●忠平はなつめの木が好きでした。醍醐天皇の皇子の家になつめの名木があったのを、挿し木を作って自ら庭先に植えました。なつめは、初夏に淡黄色の花をつけ、暗紅色の実をつけます。
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「小倉山」の歌碑は、亀山公園にあります。 ●平安京創生館では、平安時代の貴族の生活や平安京の様子を詳しく知ることができます。