プロフィール 藤原敏行朝臣

藤原敏行朝臣
(ふじわらのとしゆきあそん。生年不詳~901年あるいは907年没。)

 陸奥出羽(むつでわ)の按察使(あぜち=巡察官)富士麿(ふじまろ)の息子です。清和・陽成・光孝・宇多の4代の天皇に仕え、若くして従四位上、右兵衛督(うひょうえのかみ:朝廷警備の長官)まで昇進しました。妻は17番・在原業平の義理の妹です。業平や紀氏一族と親交があり、歌を詠み合っています。秋の歌が得意でした。晩年は病に苦しみ、寛平4年(892)には蔵人頭にまでなって、渤海国(ぼっかいこく:中国の東北地方とロシア沿海地方、朝鮮半島に北部にまたがる国家)への公文書や勅書を書いていますが、半年ばかりで辞任しました。敏行が亡くなった時、33番・紀友則が詠んだ哀傷歌が「古今集」に収められています。三十六歌仙の一人ですが、高名な書家としても知られており、小野道風(おののとうふう)が村上天皇に我が国の書の上手は誰かと問われて、「空海、敏行」と答えたという逸話や、色好みであったという逸話もあります。敏行の書で現在も残っているのは、京都神護寺の鐘銘のみです。
代表的な和歌
●「春雨の 花の枝より 流れこば なほこそ濡れめ 香もやうつると」(春雨が桜の枝から流れ落ちて来たら、もっと濡れよう。花の香が移るかもしれないから。「後撰集」宮中の桜を賞美しながらの酒宴での歌。)
●「秋の夜の あくるもしらず なく虫は わがごと物や かなしかるらむ」(秋の長夜が明けるのも知らずに鳴き続ける虫、私のように何か悲しくてたまらないのだろう。「古今集」)
●「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(目には見えないかすかな風の音に秋の訪れを感じ取った歌です。幾重にも衣を重ねて着る服装を思えば夏の暑さは耐えがたく、秋を待ち望む思いは強かったことでしょう。「古今集」秋歌の巻頭に置かれています。)
●「なに人か 来てぬぎかけし 藤袴(ふじばかま) 来る秋ごとに 野辺をにほはす」(どんな方が来て、脱いで掛けたのか。藤袴が今年も咲いて野辺に良い香りを漂わせるよ。「古今集」当時は藤袴の花を着物のはかまにたとえました。)
●「白露の 色はひとつを いかにして 秋の木の葉を ちぢにそむらん」(白露の色は一色なのに、どうして秋の木の葉を多彩な色に染めるのだろう。「古今集」)
●「わが恋の かずをかぞへば 天の原 くもりふたがり ふる雨のごと」(あなたに対する私の恋を数に置き換えれば、空いちめん掻き曇り降る雨のようなもので、とても数えられるものではない。「後撰集」)
エピソード

●「今昔物語」巻14と「宇治拾遺物語」巻8の「敏行朝臣の事」によく似た説話が収められています。敏行は歌人としてより能書家(のうしょか:文字を書くのが上手な人)として有名でした。能書の仕事は、寺院の額や釣鐘の銘を書くほか、依頼されて写経をします。「宇治拾遺物語」によると、法華経の写経を依頼した人が200人もいたそうです。ところが、敏行は急死して、写経の依頼者から訴えられて地獄で裁判を受けることになりました。写経する時には身を清めて真心をこめて書かねばならないのに、肉や魚を食べ、女性の体にふれながら、うわの空で書いたので、野辺に捨てられた経が雨に洗われて、墨の黒い川が流れていたのです。敏行は四巻経(しかんぎょう)を書いて供養することを願い出て許され、生き返ることができたのですが、健康が回復しても女性に恋をしかけたり、気のきいた歌を詠もうと思っているうちに、冥土での約束を忘れ果て、とうとう死んでしまったというのです。その後、紀友則の夢に、顏や様子が恐ろしく変わった敏行が現れ、怠け心のせいで、経を書かずに死んでしまった罪によってひどい苦しみを受けている。私を哀れと思われるのなら、三井寺の僧に頼んで四巻経を書かせて供養してほしいと泣き叫びます。その願いをかなえると、友則と僧の夢に、喜ばしげな顔に変わった敏行が現れ、堪えがたい苦しみを少し免れたと語ります。
●「古今集」に「藤原敏行朝臣の身まかりける時に、よみてかの家に遣はしける」という詞書で、33番・紀友則の哀傷歌があります。「寝ても見ゆ 寝でも見えけり 大方は うつせみの世ぞ 夢にはありける」(亡くなったあなたの姿が、寝ても夢に見え、寝ないでもその面影が浮かんできます。けれどもよく考えてみると、この現世そのものが夢だということに気づきました。)この友則の歌の「夢」が結びついて説話が作られたのかもしれません。2人の交流の深さがわかります。
●「住の江の」の歌碑は、名神高速道路下り線の吹田サービスエリア内にもあります。オープン記念として、大阪にちなんだ歌碑2基を建てたそうです。 ●高雄山神護寺は、和気清麻呂が平安遷都後の802年頃に完成させた寺で、空海が入山した寺として有名です。銅鐘は日本三名鐘の一つとして国宝になっています。
●鐘は875年(貞観17年)に鋳造されたものです。序詞(じょことば)を橘広相、銘文を菅原是善(24番・菅原道真の父)、文字は藤原敏行の手による銘文が刻まれています。序、銘、書のいずれも当代一流の者によることから「三絶の鐘」と呼ばれました。長い年月でひびが入り、現在は鐘楼に保管されています。 ●敏行の説話に登場する三井寺は、滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ)のことです。古くから日本四箇大寺の一つに数えられている有名な寺です。「三井の晩鐘」で知られる鐘楼は、高雄山神護寺、宇治平等院と共に日本三銘鐘の一つです。