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参議篁
(さんぎたかむら。802年~852年)
本名を小野篁(おののたかむら)といい、遣隋使の小野妹子(おののいもこ)の子孫です。武道を好み、漢詩人としても有名で、「文章天下無双(てんかむそう:天下に並ぶ者がいないほどすぐれていること)」と評判でした。日本初の勅撰漢詩集「凌雲集(りょううんしゅう)」の撰者の一人です。若い頃は、弓馬の遊びに夢中になり学業はなまけていましたが、嵯峨(さが)天皇にいさめられて学問に志しました。その博識ぶりについては「宇治拾遺物語」の17「小野篁広才の事」に嵯峨天皇との問答が生き生きと描かれています。どんな漢字でも片仮名でも読み解いたそうです。片仮名の子文字(ねもじ:当時は片仮名のネに「子」を用いた。音はシ、訓はコ、ネ)を12も並べて、「子子子子子子子子子子子子」と書いたのを見て「猫の子の子猫、獅子(しし)の子の子獅子」とすぐに読み解いて、嵯峨天皇を感心させました。834(承和元)年に遣唐使の副使に任命され、836(承和3)年に唐に向けて出発しましたが難破して帰国。838年の再出発の時、遣唐大使・藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)の船に故障(水漏れ)が見つかり、篁の船と交換されてしまいます。朝廷への抗議も聞き入れられなかったので、仮病を使って乗船を拒否し、遣唐使を批判する漢詩「西道謡(さいどうよう)」まで作ったため、嵯峨天皇の怒りにふれ、37歳の時、官位を奪われたうえ、隠岐(おき)に流されました。しかし、文才を惜しんだ仁明天皇によって2年後に都に戻され、陸奥守、刑部大輔、蔵人頭等を歴任し参議にまで出世しています。自分の信念を曲げず、筋の通らないことを許さない性格で、自分の考えをはっきり言う人でした。感情的になり、奇行もめだったので、人々は篁のことを「野狂(やきょう)」「野宰相(やさいしょう)」と呼びました。身長188cmの大男だったそうです。 |
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●「泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるがに」(私の涙よ、雨と降ってほしい、三途の川が増水して妹が渡れずこの世に帰って来るように。「古今集」に妹を亡くした時の歌とあります。ここでは古語の「妹(いも)」、つまり恋人ではないかという説もあります。)
●「思ひきや 鄙(ひな)のわかれに おとろへて 海人(あま)の縄(なは)たき いさりせむとは」(思ってもみなかった。都の人々と別れた田舎での悲しみにおとろえ果てたあげく、漁師の網で魚をとろうとは。「古今集」流罪になった隠岐での歌です。)
●「物色自堪傷客意 宜将愁字作秋心 <物の色は自(おのずか)ら客の意(こころ)を傷ましむるに堪へたり。 宜(うべ)なり、愁の字をもちて秋の心に作れることを>」
(秋の寂しげな風物は、何を見ても故郷を離れたさすらいの人の心を感傷的にさせるのに十分である。だから、「愁」という字は、「秋」の「心」という形に組み立てていることはもっともなことだ。「和漢朗詠集」には、隠岐での心情を詠んだ漢詩も残っています。)
●「しかりとて そむかれなくに 事しあれば まづ嘆かれぬ あな憂(う)世の中」(そうは言っても、すぐに俗世を捨てて出家することもできないさ。何か事が起きると最初に出るのはいつもため息。ああ、何と辛い世の中だ。「古今集」)
●「花の色は 雪にまじりて 見えずとも 香をだににほへ 人の知るべく」(白梅よ、花の色は雪にまざって見えないとしても、せめて香だけでも匂わせよ、人がそれと気づけるように。「古今集」梅の花に雪が降り積もっているのを詠んだ歌です。)
●「水のおもに しづく花の色 さやかにも 君がみかげの 思ほゆるかな」(水面に映っている花の色のように、冴え冴えと主君の面影がしのばれることよ。「古今集」池の水面に映った花を見て、そのようにさやかに面影がしのばれると、亡き天皇への思慕を詠んだ歌です。) |
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●「古今集」真名序(まなじょ)に「風流如野宰相(ふうりゅうはやさいしょうのごとく)」とあり、「風流な歌を詠む野宰相(小野篁)のような人物や、軽妙で雅な歌を詠む在納言(在原行平)のような人物がいたが、漢詩文の才能によって世間に名前を知られた人物であり、和歌の道によって高名になったのではない」と記されています。
●「今昔物語」巻20の「小野篁情(なさけ)によりて西三条大臣(さいさんじょうのおとど)を助くること」には、篁が閻魔(えんま)大王と交流があり、昼間は朝廷に仕えて夜は地獄へ通って閻魔大王の執務を補佐していたという話があります。かつて学生の身分であった時、あることで朝廷から罪を問われた時、弁護してくれた西三条大臣・藤原良相(よしみ)のことをありがたいと思っていました。何年も経ち、良相が重い病気で亡くなり、閻魔王宮で裁判を受けることになった時、「この大臣は心正しく、人に対して親切な者です。この度の罪は私に免じてお許しください。」と閻魔大王に頼んで命を助けたと書かれています。篁が冥官(みょうかん:地獄の閻魔庁の役人)を兼務していて亡くなった人を蘇生させた話は、中・近世を通じて広く語られていました。篁は疫病が発生しないように、死体の火葬を進めた人です。火葬の時に、この世とあの世の関係を語って聞かせたそうなので、このような伝説が生まれたのではないかといわれています。
●篁の話は多く「今昔物語」巻31には篁が愛宕寺(おたぎでら:別名珍皇寺または念仏寺)を建立し、寺の鐘を鋳物師(いものし)に作らせた話、「江談抄」では篁と藤原高藤が朱雀門(すざくもん)で百鬼夜行(ひゃっきやこう)に遭った話があり、篁を主人公にした物語「篁物語」には異母妹との悲恋が描かれています。これは妹を亡くした時の歌「泣く涙…」の嘆きの深さから創作されたもののようです。 |
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●篁の墓は、堀川北大路の島津製作所紫野工場そばに57番・紫式部の墓と隣り合わせで残っています。生きた時代が違う2人が並んでいる理由には次のような話があります。平安末期、ある人の夢に紫式部が出てきて、「源氏物語」という恋物語で人々の心を惑わした罪により、地獄に墜ちて苦しんでいると語ったそうです。そこで冥官(みょうかん:地獄の閻魔庁の役人)である篁が救い出して、見守っているというのです。 |
●京都市東山区の六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)は、「六道さん」とも呼ばれています。この寺は平安京の火葬地であった鳥辺野に至る道筋にありました。この世とあの世の境(さかい)の辻が、境内あたりであるといわれ、冥界への入口とも信じられてきました。 |
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●小野篁が冥界(めいかい)に通ったという井戸があります。篁は閻魔大王に手厚くもてなされたという説話が生まれました。 |
●珍皇寺には篁の等身大の像、閻魔堂には両袖を風になびかせたやや小ぶりの木像もあります。 |
●冥界からの出口は、昔、嵯峨・大覚寺門前にあった福生寺(現在は清凉寺内)の井戸です。現世に生き返ることから「生の六道」といわれました。篁は仏像の彫塑(ちょうそ)にも優れていて、京都に伝えられている六地蔵巡りの各所の地蔵は、篁自らが病の全快に感謝して、桜の木から六体彫り上げたのが起源といわれています。 |
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