プロフィール 山部赤人

山部赤人
(やまべのあかひと。生没年未詳、7~8世紀頃 701年頃~天平勝宝年間頃)

  奈良時代初期の宮廷歌人で、「万葉集」第3期の代表的歌人です。生没年は分かりませんが、天平8(736)年頃没したとも言われています。身分の低い下級役人だったようで、天皇の行幸などに同行して歌を捧げたり、皇室で不幸があれば挽歌(ばんか:人の死を悲しみ嘆く歌)を詠むなどの仕事が多かったようです。特に聖武天皇期に活躍し吉野(奈良県南部)・難波(大阪市)・紀伊(和歌山県、三重県南部)・播磨(兵庫県南部)など、各地への行幸にお供した時の歌が残っています。古代には、歌で風景をたたえる「土地ほめ」が盛んに行われました。言葉の力で国土をまとめ上げていこうとするもので、赤人は天皇と各地を旅して「土地ほめ」の歌を詠んだのです。自然描写に優れ、澄みきった美しい歌風が特徴です。35番・紀貫之は「古今集」の仮名序で、赤人を3番・柿本人麻呂と並ぶ「歌聖」としてたたえています。三十六歌仙の一人です。「万葉集」では「山部」ですが、「百人一首」では「山辺」の表記が一般的です。
代表的な和歌
●「春の野に すみれ摘(つ)みにと 来(こ)し我そ 野をなつかしみ 一夜(ひとよ)寝にける」(春の野にすみれを摘もうと来た私は、野が去りがたくて一晩寝てしまった。「万葉集」春の野一面に咲き誇っているすみれに心奪われている様子が伝わってきます。)
●「あしひきの 山桜花 日並べて かく咲きたらば いた恋ひめやも」(山の桜花が幾日も続けてこう咲いていたら、ひどく恋しくは思わないだろう。「万葉集」)
●「我が背子(せこ)に 見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪の降れれば」(あの方に見せようと思っていた梅の花は、どれともわかりません、雪が降っているので。「万葉集」)
●「若の浦に 潮満ち来れば 潟(かた)を無み 葦辺(あしべ)をさして 鶴(つる)鳴き渡る」(若の浦に潮が満ちてくると、干潟がないので、葦の生えている岸辺をめざして鶴が鳴き渡る。「万葉集」行幸に従って紀伊国に行ったときの歌。)
●「み吉野の 象山(きさやま)のまの 木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ 鳥の声かも」(み吉野の象山の谷間のこずえに、いっぱい鳴き騒ぐ鳥の声だ。「万葉集」行幸に従って吉野に行った時の歌。)
●「ぬばたまの 夜(よ)のふけゆけば 久木生(ひさぎお)ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く」(夜がふけていくと、久木の生い茂る清い河原に千鳥がしきりに鳴く。「万葉集」行幸に従って吉野に行った時の歌。)
エピソード

●6番・大伴家持は和歌の道について、3番・柿本人麻呂と山部赤人を並べて「山柿(さんし)の門」と呼び、自らの歌才がその2人に到達できないと書いています。
●また、32番・紀貫之は「古今和歌集」仮名序に「人麻呂は赤人が上(かみ)に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下に立たむことかたくなむありける」(人麻呂と赤人は甲乙つけがたい。人麻呂が赤人の上に立つこともむずかしいし、赤人が人麻呂の下に立つこともむずかしい)と記し、2人を同列にほめています。赤人の例歌として「春の野に」と「若の浦に」の2首を挙げています。
●平安時代中期(「拾遺和歌集」の頃)には名声の高まりに合わせて、私家集の「赤人集」も編まれていますが、これは「万葉集」の巻11の歌などを集めたもので、「万葉集」の赤人の作はほとんど含まれていません。「万葉集」には赤人の長歌13首、短歌37首が残されています。 
●京都河原町にある新玉津嶋神社は、83番・藤原俊成が和歌浦の玉津島神社から衣通姫尊を分霊してまつり、歌人たちから敬われました。和歌三神は、和歌と関連深い神やすぐれた歌人を三柱あげたものです。一般には、住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂ですが、住吉明神・玉津島明神・天満天神、柿本人麻呂・山部赤人・衣通姫(そとおりひめ)とするものなど多くの説があります。 ●和歌浦は、和歌川河口付近に玉津島神社、塩竃神社などが点在する海の名所です。玉津嶋(たまつしま)神社に赤人の「若の浦に」の歌碑があります。和歌の神・衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が祀られたことにより、和歌三神の一つとして尊ばれました。都から玉津嶋詣が行われ55番・藤原公任も訪れています。
●朝日新聞が2014年11月に「百人一首で好きな歌」アンケートを行いましたが、赤人の「田子の浦に」が、525票で一位となりました。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「田子の浦に」の歌碑は、常寂光寺と二尊院の間の長神の杜公園にあります。