プロフィール 天智天皇

天智天皇
 
(てんじてんのう。626年~671年)

 
第38代天皇。舒明(じょめい)天皇の皇子で即位前の名前は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。皇太子時代から行動的な人物で、藤原鎌足(ふじはらかまたり)とともに蘇我(そが)氏を滅ぼし、大化改新をなしとげ、660年には日本初の水時計を作りました。667年、飛鳥(あすか:奈良県)から近江(おうみ:滋賀県)の大津に都を移すと、翌年、55歳で天皇に即位しました。近江令を制定し、詩歌の活動を盛んにして中国風の文化を開きます。天智天皇の女性関係は華(はな)やかで、皇后の倭姫王(やまとひめみこ)の他に、弟の恋人であり、十市皇女(とおちのひめみこ)という娘までいた額田王(ぬかたのおおきみ)、のちに藤原鎌足の夫人となった鏡王女(かがみのおおきみ)など、9人の夫人がいました。しかし、671年12月3日、58歳で天智天皇が病死すると、半年後に、壬申の乱が起こります。出家して吉野に逃れていた大海人皇子(おおあまのみこ:天智天皇の弟で、後の天武天皇)は、東国の豪族や農民を味方に付けて、近江の瀬田川に大軍で攻め寄せ、大友皇子(おおとものみこ:天智天皇の息子)の首を討ち、近江の都を滅ぼしてしまうのです。平安時代には、歴代天皇の祖、国の根本を築いた天皇として、天智天皇は尊敬されていました。2番・持統天皇は、天智天皇の娘で、天武天皇の妻です。
代表的な和歌
●「香具山は 畝傍(うねび)を愛(を)しと 耳成(みみなし)と 相争(あひあらそ)ひき 神代より かくなるらし 古(いにし)へも 然(しか)なれこそ 現人(うつせみ)も 褄(つま)を 争ふらしき」(香具山の神様は、畝傍山の神様を愛しいと思って、耳成山の神様と争った。神代からこんなふうに恋の争いがあったらしい。神様の昔もそうであったからこそ、現代の人も、結婚相手をめぐって争うものらしい「万葉集」の長歌。天智天皇自身も弟・大海人皇子(おおあまのみこ)の恋人であった額田王(ぬかたのおおきみ)を奪って妻の一人にしています。)
●「わたつみの 豊旗雲(とよはたぐも)に 入日(いりひ)さし 今夜(こよひ)の月夜(つくよ) あきらけくこそ」(大海原のうえ、ゆたかに強くなびく旗のような雲に、夕日がさしている。今夜の月はくもりなく明るいことだろう。「万葉集」の反歌。新羅(しらぎ)への遠征(えんせい)のため、九州に向かう船旅での歌だといわれています。
●「万葉集」2巻にある天智天皇の妻の一人、鏡王女(かがみのおおきみ)との相聞歌(そうもんか:恋の歌)です。天智天皇「妹(いも)が家も 継(つ)ぎて見ましを 大和(やまと)なる 大島の嶺(ね)に 家もあらましを」(あなたの家だけでもいつも見られたらよいのに。大和の大島の嶺にあなたの家でもあればいいのに。)鏡王女「秋山の 木(こ)の下隠(したがく)り 行く水の 我こそ益(ま)さめ 思ほすよりは」(秋の山の木陰をひそかに流れてゆく水のように私の方こそ深く思っています、あなたが思ってくださる以上に。) 
●「君が目の 恋(こ)ほしきからに 泊(は)てて居て 斯くや恋ひむも 君が目を欲(ほ)り」(あなたの面影が恋しいばかりに、ここに舟を泊めています。あなたをこんなに恋しがるのは、ただもう一度お会いしたいからなのです。「日本書紀」亡くなった母・斉明天皇の棺が船に乗せられて海に出た日、当時皇太子であった天智天皇が亡き母を思って詠んだ歌です。)
エピソード
「今昔物語」巻22の「大織冠(だいしょくかん:鎌足)始めて藤原の姓を賜ること」 には、皇太子であった天智天皇が藤原鎌足(ふじはらのかまたり)と協力して蘇我(そが)氏を倒したいきさつが語られています。蘇我入鹿(そがのいるか)が自分の思いのままに政治を動かしていた頃、蹴鞠(けまり)に加わり、皇太子の沓(くつ)が脱げて飛んで行ったのを、無礼にもあざわらって外へけ飛ばします。その時、沓を拾って差し上げた鎌足を皇太子は信頼するようになり、入鹿を討つ計画を相談したということです。
●「万葉集」1巻の16に天智天皇が藤原鎌足に命じて、廷臣に「春の山の万花の艶(にほひ)と、秋山の千葉の彩(いろどり)」を競作させた時のこと、多くの漢詩が作られた中で、額田王の長歌「秋」の黄葉(もみじ)に勝利を与えた話が記されています。額田王は天智天皇の妻の一人ですが、天皇を慕って詠んだ歌があります。「君待つと 我が恋ひ居(を)れば 我がやどの 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く」(あなたのおいでを待って、私が恋しく思っていると、私の家のすだれを動かして、ただ秋の風が吹き過ぎていきました。「万葉集」)「イラスト古典万葉集」(里中満智子・画、米川千嘉子・文 学習研究社)には万葉集の代表的な歌の解説とイラストがまとめられています。
●現在の大津市には天智天皇ゆかりの史跡が多くあります。近江神宮には、天智天皇の「秋の田の」の歌碑と、天智天皇が作ったという日本最初の水時計「漏刻(ろうこく)」があります。 ●近江大津宮錦織(おうみおおつのみやにしこうり)遺跡は、天智天皇が飛鳥から近江に都を移した、大津宮の跡です。遷都後わずか5年で天皇が亡くなり、その後に起きた壬申の乱により大津宮は滅びてしまいました。
●天智・天武・持統の3代の天皇が生まれた時、産湯の水をくんだ泉が園城寺(三井寺)金堂横にある閼伽井屋(あかいや)です。そこから「御井(みい)の寺」と呼ばれ、三井寺の名の起こりとなりました。 ●京都の名菓店の駐車場に巨大な天智天皇像を発見しました。(大津市追分・京都東インター店)