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平兼盛
(たいらのかねもり。生年未詳~990年)
光孝天皇のひ孫・篤行(あつゆき)王の3男です。はじめ兼盛王を名乗っていましたが、950年、臣籍に下って平氏を名乗りました。従五位上と官位は低く、越前権守・山城介・駿河守など地方官を歴任しました。後撰集の頃の代表的歌人です。59番・赤染衛門の父という話が「袋草紙」に残っていますが、真相は不明です。三十六歌仙の一人で、屏風絵や歌合の作者として、村上天皇から5代約半世紀にわたって活躍しました。勅撰集には86首も選ばれています。この「天徳四年内裏歌合」は後世の歌合の模範とされた歌合で、その中でも兼盛と41番・壬生忠見の結びの勝負は、歴史に残る名勝負として語り継がれました。この歌のように兼盛の歌風は、掛詞や縁語などの技巧を用いず、着実な表現に重きを置きました。内容も実生活に即したものが多く、生活派の歌人とも呼ばれています。47番・恵慶法師、48番・源重之、49番・大中臣能宣らと親交がありました。正暦元年12月に亡くなりましたが、80歳を越えていたようです。家集に「兼盛集」があります。 |
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●「今日よりは 荻の焼け原 かきわけて 若菜つみに と誰をさそはむ」(春になった今日からは、野焼きした荻の枯草をかき分けて、若菜を採みに行きましょうと誰を誘いましょうか。ぜひあなたをお誘いしたいものです。「後撰集」「大和物語」86段によると、正月に大納言藤原顕忠の邸で命ぜられて、春の野遊びを思ってはずむ心を詠みました。大納言はたいそう喜んだそうです。)
●「わが宿の 梅の立ち枝や 見えつらむ 思ひのほかに 君が来ませる」(我が家の高く伸びた梅の枝が見えたのだろうか。思いもかけず、あなたが来てくれた。「拾遺集」冷泉院の御所の屏風絵にそえた歌です。)
●「世の中に うれしき物は 思ふどち 花見てすぐす 心なりけり」(この世の中で、うれしく思うことといえば、気の合う友だちと花を見て過ごすことです。「拾遺集」)
●「道とほみ 行きては見ねど 桜花 心をやりて 今日はかへりぬ」(道が遠いので、実際行っては見ないけれども、山桜の花よ、心だけは行かせて、今日は帰って来たよ。「後拾遺集」14番・左大臣源融の旧宅・河原院に歌人たちが集まって歌を詠みあった時、遠くの山の桜を見て詠んだという歌です。)
●「暮れてゆく 秋の形見に おくものは 我が元結の 霜にぞありける」(暮れて去る秋が形見に残して行ったものは、私の元結についた霜、いや白髪であったよ。「拾遺集」友人であった48番・源重之の便りに答えた歌です。)
●「見わたせば 松の葉しろき 吉野山 いく世つもれる 雪にかあるらむ」(見わたせば、松の葉までも白い吉野山よ。どれほど長い年月消えずに積もっている雪なのだろうか。「拾遺集」藤原兼家邸の屏風絵にそえた歌です。「松の葉」「いく世つもれる」に長寿祝賀の意味をこめています。)
●「君恋ふと 消えこそわたれ 山河に うづまく水の みなわならねど」(あなた恋しさに、私の命はしょっちゅう消えそうになっているのですよ。谷川に渦巻く水の泡ではないけれど。「兼盛集」) |
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●「大和物語」56~58段、72段、86段に兼盛の歌物語が記されています。58段には安達原の黒塚に滞在していた48番・源重之の娘たちに、当地の鬼女伝説をふまえて歌を贈った話があります。「みちのくの 安達の原の 黒塚に 鬼こもれりと 聞くきはまことか」(みちのくの安達が原の黒塚という田舎に、姿も見せず引きこもっている美しい鬼がいると聞きますが、それはまことですか。)人に姿を見せぬ姫君をあえて「鬼」と呼んで心をひき、結婚を申しこんだのです。しかし、まだ年が若いからと断られてしまいます。兼盛は山吹の花を添えて「花ざかり すぎもやすると かはづなく 井手の山吹 うしろめたしも」(花ざかりを過ぎるのではなかろうかと、井手の山吹のような娘さんを残して、都へ行くことが気がかりですよ。)と詠んで都に帰ります。後日、その娘がほかの男と一緒に上京したことを伝え聞き、知らせがなかったことを責めると、「これがみちのくの土産です」と言って、兼盛の山吹の歌を送り返してきました。そこで、兼盛は「年を経て ぬれわたりつる 衣手を 今日の涙に くちやしぬらむ」(長い年月、あなたのことを思う涙で乾くひまもなくぬれていた袖なのですが、今日のあなたの仕打ちによる涙で朽ちてしまうことでしょう。)と言ってやります。「兼盛集」の詞書を見ても、ずっと手紙を出しているのにつれない女性に贈った歌など、片思いの歌がかなりあります。恋愛には不器用で失敗することが多かったようです。
●「袋草紙」に「兼盛ハ和歌ヲ毎度ニ沈思ス」と記されています。平兼盛が、歌合のたびに正装をして長時間考え悩み、苦吟(くぎん)していたというのです。歌に対するこだわりが強く、これという表現を思いつくまで苦心していたのでしょう。 |
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●真弓山観世寺から山門前の道路を100mほど行った曲り角に鬼婆を埋葬したという「黒塚」があります。(福島県二本松市安達ヶ原) |
●「黒塚」の左側に平兼盛の「みちのくの」歌碑が建っています。この歌によって「黒塚」は歌枕として知られるようになりました。 |
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●贈答歌に花を添えることはよくありました。山吹の花は昔から女性にたとえられました。 |
●紀時文(35番・紀貫之の息子)から屏風歌の表現に難点を指摘された話があります。兼盛は、貫之の「逢坂の」歌を例に挙げて「貫之も同じように詠んでいます。おっしゃるような難点がありますか。」と即座に反論しました。 |
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